四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

タグ:溜池

市宮池(いちのみやいけ)
別 称:八王子池

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北堰堤
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西堰堤
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太陽光発電所
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取水口
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余水吐け
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管理者:
河川名:
住 所:香川県高松市香川町浅野

堰堤長:343.0m
堰堤高:9.7m
貯水量:379.0千立方m
目 的:「A」灌漑、 
形 式:アース
解説等
 灌漑面積:16.1ヘクタール 香川町浅野・多肥上町
 築造の由来ははっきり分からないが、延享二年(1745)に編纂された『翁嫗夜話』(後に『讃州府志』と改題)によると、当時浅野村に池が七つあり、その中に「一ノ宮池」の名があり、この『翁嫗夜話』に、ため池については「貞享三年(1686)八月所定也」とあるところから、310年以上昔に築造されたものと思われる。また、言い伝えによると、昔、一宮の田村神社付近の田畑が荘園(寺社領)であった。当時、荘官が田の水不足に困って、この地に池を築き、浅野から船岡、寺井を通って、一宮まで水を引くようにしたので市宮池と名付けたとも言われている。
 更に、宝暦五年(1755)二月の「香川郡東村々溜池記録」によると、当時浅野村掛りの池は十九あって、その中に「市宮池」があり、次のように記されている。
 市宮池
 二十五石 上浅野免
 五十石  下浅野免
 二十二石 上多肥村
 この市宮池は、浅野の八王子神社のある八王子地区にあるので八王子池とも呼ばれている。
 改築の経緯
 天保十五年(1844)池底の土砂だし
 嘉永二年(1849)本揺・上鳥居改修
 文久元年(1861)池の改修
 昭和四十五年(1970)樋管部分を中心に改修。工事中に「文久紀元秋八月向井根賢敬築」と刻まれた石柱が土中から発見される。堰堤に保存
 昭和四十六年(1971)洪水吐け改修
 平成八年(1996)取水施設(樋管)の改宗。堤体の補強工事。平成十二年(2000)完成
 水利
 水源は、香東川から掛井手で取水し、現在香川町浅野地区の北端までと多肥上町地区が受益地域になっているが、余水を三谷三郎池に取水できることになっている。 
資 料:夢みらい図書館蔵:讃岐のため池誌抜粋、ダム便覧など、
撮影日:2024年9月4日
駐車場:無し
附 則:香川県内55番目の貯水量

音谷池
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洪水吐け
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大坪川
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取水口
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管理者:香南町土地改良区
河川名:本津川水系大坪川
住 所:香川県高松市香南町由佐

施 工:
改 築:
堰堤長:210.0m
堰堤高:12.7m
貯水量:383千立方m
目 的:「A」灌漑、灌漑面積:60.0ヘクタール(香南町由佐・池内・西庄・綾川町畑田)
形 式:アース
解説等
 香南町南部の丘陵地帯は、昔から水には随分苦労をしてきた地域であり、降雨が少ない年には、池の満水も難しく、勿論田畑も30%という年も屡々であった。
 音谷池は、古くは合子池と呼ぶ小池で、灌漑面積も五ヘクタール位であった。。碑文によれば、寛永、正保(1624~47)のころ、旧池内村内、数戸の溜池掛かり及び新開田を加えて37.2ヘクタール、内宅地2.6ヘクタール(宅地に水ブニは不思議に思われるが、水に困った地域であるため、宅地まで水費を負担して水ブニ=水利権を確保した)を水掛かり地区にして、この池を増築して音谷池と改称した。ここにおいて古掛かりという特権地区が誕生したものとおもわれる。水はいつでもサンザイ(自由に)使い、池の諸費用はいっさい負担なしという特権階級であり、元の合子池掛かりを指している。
 この池が現在の規模となったのは、明治三十二年~三十三年(1900)の増築工事によるものである。当時、池西村(現高松市香南町池西)の豪農妹尾彦六は年々の日照りによる惨状を見かねて村内地主を説得、明治三十二年八月、工費一万二二四〇円をもって翌年二月増築工事を完了した。堤高4.5mを嵩上げ、堤長210m、堤高13m、池面積は二倍、貯水量三十八女三千余トンという立派な入れ物を完成したのである。しかし、天水頼りで集水地域の狭小な地形では満水を期待することも少なく、たまたま満水すれば二年間は配水に心配がないとまでいわれてきた。
 当時、丸岡徳平、池内芳三郎両氏は、高台地域の雨水確保のため、東南の山腹に他の池と組み合わせ、音谷池より安原村(現高松市塩江町安原)まで新水路を開設することを計画した。その一期工事としてまず大字岡(現高松市香南町岡)の稚池より音谷池に至るまで各池間の取水契約要旨を定め、明治三十二年一月着工、同三十四年一月、新水路金取引簿が『丸岡家文書』に記されていることを思えば、同三十三年末工事が完了したものと推測される。
 この新水路各池契約要旨の石碑は、当時高根山入口新水路分水地点の南側山麓にあったが、現在は文田池堤防に移設されている。石碑には、取水順序と分水量及び負担割等が詳しく記されている。
 音谷池・夫婦池は最終の取水順位におかれ、負担は三分三厘(33%)と定められている。しかし、降雨が大量にない限り、依然として水不足は解消されなかった。ところが皮肉にも、大正七年(1916)九月、台風の豪雨によって同月十四日、堤防の決壊という大惨事が起こった。濁流は十戸の農家を押し流し、谷筋の水田20ヘクタールを吞み込んだ。
 音谷池を水源とする農家は途方にくれたのである。先の嵩上げ工事を推進した妹尾彦六は、当時の池西村長として再び復旧の先頭に立ち、他の地主と共に「音谷池耕地整理組合」を設立、自ら組合長となって、大正七年十二月早くも復旧工事に着手、県の指導援助と関係者一丸となって、寝食を忘れ努力の甲斐あって、遂に大正九年五月、五万八千七百五十四円をもって完成することが出来た。(当時米一俵二十円、八年の米騒動が起こったために米価も一段と高くなっている)こうして音谷池は元の姿に復帰した。
 新水路の経費負担をしながらも、降雨に恵まれない限り干害からの脱出は夢でしかなかった。常習旱魃地帯の悪名を返上できたのは、寛永初期より多くの先輩が提唱し、永年の悲願であった内場池が昭和二十八年(1953)三月完成。引き続き施工された池西幹線水路の新設によってである。昭和三十三年、遂に綾南町(現綾川町)畑田に至る一万一千七十余メートルが完了した。
 音谷池は幹線上流部にあるため、昭和三十二年より願望久しかった内場池及び香東川の水が貯水できるようになった。長年の夢が現実のものとなり、干禍の憂いは遠くに失せて、年々の満水に豊穣の秋を関係者の犇々と窺われるようになった。
 昭和三十六年(1961)十一月、第一期工事として堤体前付け及び樋管取り換え工事着手。同三十八年三月完了。
 各圃地にはパイプライン化によって給水されているようです。用水路が見つかりません。
資 料:讃岐のため池誌 平成十二年三月三十一日発行、

撮影日:2022年1月26日
駐車場:無し
香川県内52位の貯水量ダム池。≪1位満濃池、2位椛川ダム、3位内場ダム、≫

新居宮池親水公園
池 名:宮池

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管理者:高松市国分寺町土地改良区三ヶ所池水利組合
河川名:
住 所:香川県高松市国分寺町国分

施 工:
改 築:昭和三十五年に南側堤体老朽化による修築工事。昭和四十四年西側堤体修築工事。平成二年~八年、老朽化により堤体整備工事。
堰堤長:本堤442.0m
堰堤高:9.1m
貯水量:138.3千立方m
目 的:「A」灌漑、「F」洪水調節、「R」レクリェーション(周遊約700m)。
形 式:アース
解説等
 国分寺町新居東北部に位置している。数百年前に築造されてと伝えられている。
 以来永きにわたり東北に袋山、北に大平山を水源とした二十三ヘクタールの水田を潤す農業用ため池である。
資 料:現地石碑、讃岐のため池誌など、
撮影日:2021年7月6日
駐車場:無料(池西側)、神社に駐車、
周辺施設:楠尾神社


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