四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

タグ:歴史

朔日市の石鎚常夜灯(新堀石鎚常夜灯)
住 所:愛媛県西条市朔日市
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解説等
 山岳信仰の石鎚山参拝への上陸港。
データー
高4.92m(うち基壇0.65m)
奉納時期:弘化3年(1846) 基壇C補修、基壇内部空洞化
竿正面:石鉄山大權現 竿裏面:弘化三丙子 五月〇 竿側面:不明
基 壇:正面 世話人・當〇本町・今川屋國蔵  裏側 備前岡山・橋本町大手・伊部屋永吉

資料等:岡山大学情報統括センターHP、
撮影日:2016年11月8日
近隣施設:弘法水マルトモ水産

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城 名:屋嶋城(やしまのき)城門遺構復元
住 所:香川県高松市屋島東町
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築城主:大和朝廷
築城年:飛鳥時代(667頃)
解 説:
 飛鳥時代の西暦667年中大兄皇子が築城を命じたことが「日本書紀」に記されている「屋嶋城」は、築城当時、日本を治めていた大和朝廷が、唐・新羅(しらぎ)の侵攻に備え、対馬・九州から瀬戸内海沿岸にかけて防御用として築いた古代山城の一つです。
 平成十年一月、地元研究者により、石積みが発見されたことを契機に、発掘調査が続けられ、平成十四年には古代山城の中でも最大規模の城門遺構を発掘するにいたりました。
 高松市は、平成十九年度から屋嶋城跡城門遺構整備事業を実施し、平成二十八年三月、城壁や城門だけでなく、屋島の歴史や自然を満喫できる空間ができあがりました。
 長さ約50m 高さ約6mの城壁 城門はありません。柱の跡は、角柱で表しています。
 広報たかまつNo1578 2016 4.1より転載しました。
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文化財:史跡・天然記念物「屋島」に含まれる。
H P:
写真は2016年6月8日撮影
近隣施設:屋島寺、八栗寺、史跡源平の古戦場趾

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左側は天然の城壁
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柱の跡
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城 名:羽床(はゆか)城址
住 所:香川県綾歌郡綾川町羽床下
城 郭:平山城
築城主:羽床資高
築城年:平安時代末治承年間(伝)
廃城:
解説等:
 羽床城は中世香川の有力武士である羽床氏の居城である。
 羽床氏は、讃岐藤原氏の祖である綾大夫章隆の子資高が羽床荘司に任じられ、その子重隆も羽床一帯に勢力をもち、羽床藤大夫と称して讃岐藤原氏の嫡流を継ぐとともに、羽床氏の祖となった。香西氏、福家氏は羽床氏の庶流である。
 羽床氏は羽床を中心として勢力を誇ったが、南北朝期に南朝方となったため、北朝方の香西氏が有力となって、香西氏の陣代を務めるなどしたが、天正六年(1578)香西伊賀守佳清が羽床伊豆守資載(すけとし)の娘を離縁したことから両者が対立・抗争した。しかし、翌年には土佐の長宗我部元親に屈し、資載は天正十年に十河城攻めの陣中で病死した。このため資載の子資吉が家督を継いだ。資吉は、豊臣秀吉から讃岐領主に任じられた仙石権兵衛秀久に従って島津攻めに出陣したが天正十四年に戦死し、羽床氏の直径は途絶えた。
 発掘調査が行われてないので確定してない。城郭、土塁、壕(埋まって登山道になっている)など、地元民が年二度ほど竹や草木などを伐採保存に努めている。早く調査が完了して絵図を作ってほしい。
 
資料等:現地説明板&綾川町図書館蔵綾南町誌(現綾川町)、聞き取りなど
写真は2016年2月3日撮影

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民家の農機具庫の前から上っていきます。
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壕跡
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古墳名:気延山古墳群矢野の古墳
住 所:徳島県徳島市国府町矢野
場 所:気延山東端の標高約二十四m地点に作られている。
形 式:円墳・南側に開口、複室構造をもつ横穴式石室 石室には、徳島県産の結晶片岩が使用され、棺はない。
規 模:直径17.5m 
石 室:全長11.5m高さ2.8m 手前に前室という区画を持つ徳島県では珍しい複室構造を持つ、奥の鏡石は2mを超える巨大な石材を使用し、天井は上に行くほど狭くなる持ち送り構造により高さを確保している。
羨 道:両袖式
築造期:古墳時代6世紀後半に築造、7世紀頃まで埋葬に使用されていたことがわかった。
史跡指定:徳島県指定史跡 昭和28年7月21日指定
解 説:石室の床には、平らな河原石が敷き詰められており、発掘調査の結果、須恵器、土師器、金環などが出土した。また、石室の入口付近からは、平安時代の土器も出土しており、祭祀などが行われていたようである。
資料等:現地説明板など
撮影日:2015年3月22日
近隣施設:国分寺、常楽寺、観音寺、井戸寺、阿波史跡公園

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風神塚 
津野町指定史跡 昭和五十五年二月二十日
所在地:高知県高岡郡津野町高野

 この塚は、中平善之進穏敦(やすあつ)の供養塚である。
 善之進は、宝永六年(1709)北川村の庄屋「上岡吉右衛門」の長男として生まれた。十五歳で庄屋の代勤をする程の利発者であった。
 元文三年(1738)檮原村の庄屋「中平弥左衛門定経」の養子となり庄屋の職を継いだ。その頃土佐藩は財政が苦しく、国産方を置き国産品(茶や楮など)を専売して利益を得ようとした。
 津野山郷の御用商人は「蔵屋利左衛門」という貪欲非道の者で専売権を悪用して私腹を肥やすことに終始したため百姓は日に日に貧乏になった。善之進はこの様を見るに忍びなく、津野山九ヶ村の庄屋を集め協議をし、藩に対し百姓の現状を訴え貢物の減免と国産方の配置替えを嘆願したが藩はこの訴えを取り上げないばかりか、このことを不当として弾圧さえ加えようとした。
 こうして起こったのが津野山騒動で、善之進は張本人として捕えられ牢に入れられた。善之進が牢屋より蔵屋の非道を強く申し立てたことにより蔵屋と対決させられることになったが、蔵屋は善之進の鋭鋒に罪を逃れがたいことを悟り自殺してしまう。
 その結果百姓たちは無罪、老名本はお○おき、庄屋は取締不行き届きのかどで役儀を取り上げられ藩外に追放された。総責任者であった善之進は、宝暦七年(1757)七月二十六日檮原町神在居長野駄馬において打ち首の刑に処せられた。
 藩庁は善之進のこれまでの徳政を知り、考えを改め善之進を助けんと急使を走らせたが時既に遅く、神根越まで来たとき斬首された。その時、大時化となり濁流で谷川を渡ることが出来ず使者は引き返したという。この大時化は七日七晩荒れ狂い世間では善之進時化といった。明治十九年(1886)の大時化も彼の霊の祟りであるとして翌二十年津野山郷の人々が集って供養し、その後十年に一回東津野・檮原両町村合同で祭典を行っていた。最近では四年に一回盛大に供養祭が行われている。
 平成二十五年三月 津野町教育委員会 説明板より転載しました。 


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道路向かいにある銅像
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