四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

タグ:日本史

三谿駅
住 所:香川県高松市三谷町
マピオンマップ↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/34.27789532259796,134.06957117837032,19
解 説:
 南海道 讃岐(香川県)には引田(東かがわ市馬宿)・松本(さぬき市田面)・三谿(高松市三谷)・河内(坂出市府中)・甕井(多度津町三井)・ 柞田(観音寺市柞田)の六駅があったとされる。
 古代三谷は、延喜式二十八兵部省、諸国駅伝の条に記載された官道、五畿七道に通ずる南海道の駅馬の所在地であった。
 畿内から紀伊~淡路~阿波~讃岐~伊豫~土佐へと、官吏往来の公道であり、三谷は都から十番目、讃岐国府河内駅の手前で、中央からの役人の歓送迎の行われたところであった。馬は四頭常備してあり、宿舎、倉庫、馬小屋、世襲の駅長の住宅等駅舎は瓦葺であった。
 一般庶民は駅馬を利用することは出来なかったが、古代平安時代の終わりまで都と地方を結ぶ重要な交通ルートであり文化伝播の経路であった。【高松市三谷町歴史研究会 石碑より】
資 料:Wikipediaなど、
撮影日:2017年8月30日
近隣施設:三谷三郎池公渕森林公園

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崇徳上皇白峯御陵
住 所:香川県坂出市青海町
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 長寛二年(1164)8月26日、46歳で崩御された崇徳上皇は,遺体を八十場の泉に浸さた後、9月16日に白峰山で荼毘に付され、その場に葬られました。お墓である御陵は、積み石の方墳であったといわれています。
 都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒廃していたといわれています。
 初代高松藩主松平頼重(よりしげ)、五代頼恭(よりたか)、十一代頼聡(よりとし)らにより、修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど、今日みられるように整備されました。
崇徳上皇ゆかりの地↓↓↓↓↓

白峰寺よりの参拝ルート
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古墳名:拝東古墳(はいひがしこふん)
住 所:徳島県美馬市脇町字拝原2470番地
場 所:マピオンマップ↓↓↓↓

形 式:円墳 両袖式横穴式石室
規 模:直径15m、高さ5m(推定)
石 室:現全長5.5m、玄室長4.5m、最大幅2.5m、最大高2.7m
羨 道:現長1m
築造期:6世後半から6世紀末
史跡指定:昭和49年12月17日 美馬市指定
解 説:墳丘の北側は民家・西側は果樹園・東側は水路・南側は畑でもって削り取られており本来の姿は殆ど見られない。
 奥壁と側壁の玄門石の高さまでは砂岩を使っており側壁の持ち送る部分は結晶片岩の割り石を使っている。
  奥壁と側壁から持ち送る段の塚穴型石室であり、天井部は7枚の結晶片岩が使われている。
資料等:美馬市文化財HP、
撮影日:2017年1月18日

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