四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

タグ:ため池

神高池
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管理者:神高池水利組合
河川名:
住 所:香川県高松市鬼無町山口

堰堤長:245.0m
堰堤高:11.8m
貯水量:251.4千立方m
目 的:「A」灌漑、受益面積:30.0ヘクタール
形 式:アース
解説等
 平成10年10月より平成11年4月 農業用水広域網推進事業。
平成22年10月18日より平成23年3月16日 県営ため池西部事業。(堤体工事・樋管工事)
資 料:讃岐のため池誌資料編、現地石碑など、

撮影日:2024年1月16日
駐車場:無し
附 則:香川県内では84番の大きなため池。高松市内では18番目の大きさのため池。池の中に古墳が崩れた状態で残っている。池の西側に2基の古墳が見える。残念ながら崩れていながらも見ることができる。
 池に水没している古墳は香川には他にもある。
善通寺市 大塚池
坂出市  鴻池
高松市  御厩池

橘池
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管理者:
河川名:本津川水系日名代川
住 所:香川県高松市国分寺町橘

施 工:伝奈良時代
堰堤長:280.0m(北)
堰堤高:11.60m
貯水量:555.9千立方m
目 的:「A」灌漑、受益面積:68.4ヘクタール
形 式:アース
解説等
 奈良時代には既にできていたようで、その位置は現位置よりもっと下流に堤防を築き、浅くて広い池だったようです。ところが、この池は浅い池でありながら、ゆる(取水施設)付近は何度築いても決壊するので大変困っていました。寛永年間(1624~1645 年)の大干ばつの年、前年に堤防が切れていたため、池には全く水が溜まらず、一粒の米もとれませんでした。時の領主生駒高俊は家臣西嶋八兵衛に命じて現在地に池を築造しましたが、この地の地名が橘だったので、橘池というようになったと伝えられています。
 下流の池跡は、広大で肥沃な新田が約六十町歩も開拓されたといわれています。しかし、この新田開拓によって更に水不足をきたし、岡内家七代彦左衛門が文政四年(1821)に羽間池より橘池まで約二㌔の羽間掛井手(導水路)を掘り、羽間池の余水を導水することとしました。せっかく開拓した掛井手も距離が長く、勾配がほとんどない状態で、思うように導水できないため、しだいに使われなくなりました。
 その後、江戸時代に三回(1794年、1832年、1856年)池の改修がなされた記録がありますが、それ以降は、大規模な工事は行われませんでした。
 今のため池は、昭和三十年度(1995)から平成二十年度(2008)までに各種事業により全面改修が行なわれ、立派なため池となっています。 
資 料:現地記念碑、WEBなど、

撮影日:2023年1月12日
駐車場:無し
附 則:香川県内では34番目の大きさの池。旧国分寺町内では一番大きい池。(コンクリート堰堤も含む)

仁池(飯山)

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取水口
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余水吐け
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大正以前の樋管
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管理者:綾歌郡仁池土地改良区
河川名:大束川水系
住 所:香川県丸亀市飯山町上法軍寺

施 工:1648年/1649年
改 築:
堰堤長:328.0m
堰堤高:16.0m
貯水量:1502千立方m
目 的:「A」灌漑、受益面積:28.0ヘクタール
形 式:アース
解説等
 『法勲寺村史』では、綾歌町栗熊、片岡家の「仁池由緒記」から、
 抑、仁池建築歳頃先慶安元亥年六月二十八日より始めて翌二年三月二十五日まで成就と云う。且つ掛諸役人百姓惣代印名書之義は別冊帳面に委細在之者也。
 堤 根置 四八件 但 □長五十二間
 堤 東西七十間 同満水の時 水溜り波打まで畝数三十六兆余といへり
 右普請まで人足六万八千三百九十八人云う者なり。
 ・・・・世の中の事は寸善尺魔とや、ここに矢延平六といえども予期しなかった大難に逢うことになった。その仔細は、ある時佞人(ねいじん=口先巧みにへつらう、心のよこしまな人)がいて矢延氏を讒し(よこし=事実をまげて人の悪口を言うこと)上聞に達した。このため、上役から「この度其の方の労により仁池を建設したというが、一体何程の用水がある」と尋ねられた。平六が「五月中旬から百日ばかりの用水がある」と答えると、「稲というものは植え付けから七十五日もすれば穂も十分に熟し刈り取りもできる。それを必要以上に溜め、藩はもとより下百姓に至るまで無用の費用をつかわせ、まことに不都合千万のことである」として、おとがめを蒙り、その上牢人を仰せつけられた。
 平六は残念に思い、自分は今日まで主君のために人民を補助し、いささか功績もあったと自負してきた。しかるに恩賞にあずかってもしかるべき所を、却っておとがめを蒙りまことに心外である。しかし、これも世のありようでしばらく閑居して然るべしと思い、阿波守様ご家中の柏曲求馬(柏回求馬、柏木求馬の書あり)という者を頼り阿波国へ逗留した。その逗留中、つれづれの四方山ばなしの末、我が身の不幸せの次第を物語るうち、元馬はいかにも理不尽な話であると驚き、家老の蜂須賀駿河殿に申し上げたところ、左様な大慮ある者をこのまま放置することはできないとし、更に阿波藩主の上聞に達し、藩主も同様に思い召されて、高松藩主にお取り成しがあり、間もなくお嘆び返しになった。御役仰付けられ、なお扶持も増加になったと、記されている。
 その後は、享保のゆる替え。大正の樋管替えなどをへて昭和四十年の改修工事などを経て現在いたる。、
資 料:現地記念碑、讃岐のため池誌資料編など、

撮影日:2022年5月13日
駐車場:無し
附 則:アース式堰堤での貯水量が4番目の大きさの池。1位満濃池、2位公渕池、3位三郎池
関連BLOG:飛渡神社矢延平六

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