四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: お堂(観音堂・阿弥陀堂など)

お堂名:多肥観音堂(円成庵)
本 尊:木造六字尊立像 香川県指定有形文化財(彫刻)令和3年3月30日指定

700-200

700-10

700-20

700-30

700-40

700-45

700-47

700-50

700-150

700-60

700-70

700-80

700-90

700-110
開 基:
創 建:
宗 派:
札 所:
住 所:香川県高松市多肥上町886−1
電 話:
由 緒
 「多肥の観音さん」として昔から親しまれてきたが、その容姿から「片足観音さん」とか、「六字観音」ともいって、土地の人々もいささか、その異様な姿に、畏敬の念をもって崇拝してきたものである。
 『翁塸夜話』には、六字明王として次のように述べている。「六字明王は観音の化身也、故に俗称多肥観音という。北條郡高屋に神谷兵庫忠資なる者あり、細川氏に属して功あり、賞として乃生、木沢の二邑を食せらる。是に於いて乃生村に移り遂に氏となす。後多肥郷を加封される即ち乃生、木沢、多肥の三邑を食む、世々六字明王を尊信して、其の像を安置し、東光坊をして奉守せしむ、曾孫乃生村孫兵衛元忠にいたりて、多肥に遷り、一城を営構して、これに居れり、然して亦、明王を奉じて之に従う東光坊をして守らしむこと故の如し・・・・ 世俗之を称して〔多肥観音〕と云う。天正中乃生村氏邑を喪うも子孫世々其墟に住む。頼景の後農となる。重兵衛、太郎左衛門これなり、」
 観音堂の創建は、文禄三午年小僧都宥仁六字法十万座修 建立と記録に見えている。文禄三年(1594)の建立は今の地でなく、高木城内に祀ったものと推測される。現在の位置に創建したのが、実は慶長十八年であるとするのが適当であろう。
 観音堂は乃生村氏の持仏であるから先住地の高屋や乃生を経て多肥に移されたことは明らかである。孫兵衛元忠の四代目重兵衛の時に城跡の地から観音堂の北側に移って、乃生村の姓を喜多氏と改め、六字明王を護持し続けた。甚六家が断絶してから後、田地一町九畝を観音田と、菩提寺行徳院に寄進した。この観音田の徳米で代々観音堂の営繕や堂の維持管理を行って、先祖の供養費に充てていた。
 観音堂の庵号「円成庵」は文禄の建立時の寺僧円成師が隠居家に当て、それを円成庵と号したことから始まっている。時代は慶長年中である。
ーー木造六字尊立像ーー
 像高=197.0㎝ 頂上より顎=36.0㎝ 髭際より顎=18.0㎝ 面幅=19.0㎝ 耳張=21.0㎝ 
 面奥=22.0㎝ 肘張=48.0㎝ 体奥=18.0㎝
 
資料等:多肥村郷土史など
駐車場:無料
撮影日:2024年5月2日

お堂名:法然堂(亡霊済度の経塚)
700-10


700-15

700-20

700-30

700-40

700-50

700-60

開 基:
創 建:
宗 派:
札 所:
住 所:香川県綾川町畑田 馬場先

電 話:
由 緒  
 浄土宗開祖の法然上人が、旧仏教の圧迫を受けて讃岐に遠流となった。高僧の偉大さ故に、語り継がれてきた伝説の中のひとつである。  ある時、法然上人が滝宮へ下向の折、里人たちは、畑田へお立ち寄り頂くため、お迎え申し上げた。  当時、藤原岡の塚より、宙に迷う女人が口から火を噴きながら、音を立てて宮池付近より、挿頭山の牛岩・馬岩のあたりまで飛び回るので、里人らがひどく恐ろしがっていた。里人は、こぞって法然上人お願いして、女の霊を鎮めて藤原岡が穏やかになるようにしたかったのである。  上人は、里人たちに川から小石を集めさせた。そして、その小石に三部経を一字一石に書写した。その石を集めて塚を造り、その上に仏像を石に刻んで安置し、七日間お経を唱えた。 いよいよ七日間の読経も終わるころ、ものすごい音と共に炎を吹く女人が五色の雲に乗り、満足そうに上人を見つめている。上人は残してあった経石を高く投げ上げた。すると同時に、女人は天に上ってみごと成仏したという。  それより村は平和な里になって、里人等は大いに喜び、長く上人の徳を称えるようになったという。
資料等:綾川町史など
駐車場:無料

お堂名:熊谷堂(熊谷入道住居跡)

700-10

700-20

700-30

開 基:
創 建:
宗 派:
札 所:
住 所:香川県高松市香南町西庄

電 話:
由 緒
 西庄字西ノ原の井上家の西隣に熊谷直美が住んでいたという跡地がある。今そこには多くの信者によりお堂が建てられ、丁重に祀られている。
 ここに掲額されている『熊谷入道遺跡略縁起』は次の通りである。
 〔抑熊谷法力房蓮生法師直実は武蔵の国の住人熊谷の地頭、平の直貞の三男にして、平治・治承・寿永の頃、所々の戦に武勇を顕し、而て元歴元年(1184)三月六日九郎半官義経は鷲尾経春を先導として、鵯越から一の谷へ逆落しに攻めかけ、要害堅固を恃んでいた平家、計らざる不意打ちに狼狽して舟に乗り海に遁れんと汀に落ち行く。熊谷は今日も好き敵御座れと東西を窺うていた折、無官の大夫敦盛卿ただ一騎中納言知盛卿の舟へと志し落ちんとする所、日本一の剛の者熊谷次郎直美と名を呼びかけて取り組めば、天晴剛の者と思い見れば十六七才の若年者なり。さすが熊谷も思わず涙を流し、あらあさましや、倅小次郎と同年なるか、義理と情に挟まれた。今や陸には源氏の将兵充ち満ちて沖ものがれ難しとて首打てば、剛の者熊谷も思わず有為転変無常を感じ、所領と妻子を捨て都吉水に登り、法然房源空上人の弟子となる。 弥陀の本願の妙旨を聞きてより無二の信者となり、殊に不背柴法の願を立てその後吾妻下りの砌には西方後向も事を恐れ馬を逆に乗りけるが「浄土にも剛の者をや沙汰すらん西に向かひて後を見せねば」と詠わせし程の信念堅かりしを以て上人常に坂東が阿弥陀仏と仰せられける。 平家の軍は讃岐屋島に拠る。源氏は之攻める敵、味方の将兵戦死者多し、弥陀の御本尊を戴いた熊谷はとる物もとりあへず屋島にこられた。特に源氏の軍は兵器・軍馬の集散地、千疋・池西に来る。この地を昔より老人の言い伝えによれば、熊谷屋敷と云う伝えてあり、その後、この地に人永住できず。 老齢者に聞けば、天保七年には嘉吉、安政五年山中冬吉、明治五年小原宇一、明治三十年小原ツイ、明治大正にかけて由良半造、昭和年間井上氏この地を田畑に改め御名号のあの所が熊谷屋敷その南側の土地が堂の前と云う所、この所を綾南六ヶ村及び池西・川岡・円座の一味同行相計り、このたび御堂を建立して信念堅くし、熊谷蓮生房の史跡を拝し後の世のため古きを尋ね今を知り皆共々に史跡を偲びましょう。 昭和四十四年秋吉日〕
 なお、熊谷次郎直実の讃岐に関する事柄については、『全讃史』にも次のような記録が記載されいるので、このあたりにこられたことは事実であろう。
 承元元年(1207)二月、法然上人の此の国に流謫されたとき、西念寺に宿りをされた。蓮生坊も従い来って此の処にいた。然るに五年赦免に遇って京に帰られ、蓮生も従い帰って死んだ、思うに里人がその死を聞いてこの墓を作ったのであろう。
 念仏修行の地

資料等:「綾南町史」など
駐車場:無
撮影日:2023年5月1日
関連ブログ:西念寺誕生寺

お堂名:摺鉢谷滝不動堂
700-10

700-20

700-30

700-40

700-50

700-60

700-70

700-80

700-90

700-100

700-110

700-120

700-130

開 基:
創 建:
宗 派:
札 所:
住 所:香川県高松市西宝町2丁目

電 話:087-831-2845
由 緒
 当山摺鉢谷滝不動堂は、江戸時代に高松藩主松平頼重公が修業の場として山館を建てたのが始まりである。現在は行泉寺(高松市番町5丁目9-24)の境外仏堂で、不動堂は平成10年9月に新築されている。

資料等:現地石碑など
駐車場:無
撮影日:2021年12月7日

合格地蔵尊

場 所:柳谷ダム少し上流
住 所:愛媛県上浮穴郡久万高原町西谷12800

特 徴:内部がよく見えなかったので不明。
刻 像:
塔 型:
由 来:
建 立:
願 主:
解説等:この地蔵は、郷角地区の名前を漢字変換をしたようである。でも、道路標識も合格農道となっていて既に現在の文字は馴染みになっているようです。
 愛媛新聞2011年1月19日(水)記事
 久万高原町西谷の郷角(ごうかく)地区にある「合格地蔵」への参拝客が増えている。1986年にまちおこしの一環で、住民が大正期以前からあったお地蔵さんを、集落の中心部から入り口の国道近くに移し、お堂を新築。「合格地蔵」として祀るようになった。
 近くには、バス停「合格」があるようです。受験生の皆さん一度行って見ては。
撮影日:2020年10月19日

700-03


700-07


700-10


700-15


700-20


700-30


700-40

↑このページのトップヘ