四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 愛媛県新居浜市

【別子銅山Ⅷ・歓喜間符(かんきまぶ)】
 別子本鋪(べっしほんじき)標高1,210m
 本鋪とは一山の主たる生産抗のことである。元禄4年5月9日、幕府の稼行許可を得て、泉屋は直ちに開抗の準備に取りかかった。その時点で、この谷間を利用して、掘り出した鉱石から銅を摘り出すまでの工程を組み込むために、ここを中心となる坑道を開けることにした。前年の秋に初めて調査にやって来た泉屋の番頭(田向重右衛門)が下した決断であった。かくして別子山中に最初に開いた抗口が「歓喜間符かんきまぶ」と「歓東間符かんとうまぶ」である。重右衛門が考えた通り、以来明治になって東延斜坑が主たる生産抗になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。背後の平坦地には鋪方役所があって、負夫によって運び出された鉱石は重さを計り買い取り、砕女(かなめ)小屋へと運ばれた。
 上方一帯、桧の木立の中には、山方(やまかた)と呼ばれる抗夫の住宅が並んでいた。
 上記記事は、現地案内説明板より転載しました。

 前回は、登山道三叉路をを右にとって東延斜坑跡に行ったが今回は、三差路まで引き返し銅山越え展望台・歓喜間符口方面に進んだが、既にもう3時、来た時間を考えると、展望台まで後40分は素人の足では県道沿いの駐車場に帰るには、遅くなりそうなので今回は展望台へ行くのを断念した。別子山一部終わり。もう一度のトライを考える。
 写真は、2010年8月16日撮影

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

【別子銅山Ⅶ・東延斜坑跡】
 東延斜坑
 この辺りは別子鉱床の東の端に当るが、地下深部に三角(みすま)と言う所があり、そこにはとてつもない立派な鉱石が無尽蔵に眠っている事が以前から分っていた。明治7年(1874)住友家の要請を受けた鉱山師「ルイ・ラロック」は、この一点を選んで斜坑を掘り、三角の富坑体に到着させ、その間に階段状に水平坑道を開削して鉱床に逢着させる。採掘した鉱石は斜坑に集約して出鉱するという新生別子銅山案を提起した。ただ、当時日本の鉱山では本鋪(ほんじき)という大きな坑道でも5尺(1.5m)×6尺(1.8m)程度であったが、ラロックの東延斜坑は口は幅が20尺(6m)高さ9尺(2.7m)もあった。しかし、当時の住友の実力者「広瀬宰平」が、敢えてこの大起業に挑んだのは、彼が11歳で別子銅山に奉職し、三角の大富鉱体を見つけおり、三角に賭ける山内の熱い空気に触れていたからであろう。
 東延斜坑跡
 フランス人鉱山技師「ルイ・ラロック」の進言により、各水平坑道を縦に結ぶ運搬坑道として明治9年(1876)7月に着工、同28年(1895)1月に完成した。49度の斜坑で北より東35度30分の方向に626m掘り下げて八番坑道(第3通洞)に達している。この斜坑の完成により抗底の抗水は小足谷に排出され、各坑道からの鉱石は蒸気駆動の巻揚げ機で斜坑から搬出されて、別子の採鉱量は飛躍的に増大し、東延は銅山の中心地帯となり第一通洞口から下の高橋にかけて選鉱場や焼鉱炉が並んでいた。
 以上の記事は現地案内説明板より転載しました。
 写真は2010年8月16日撮影

 レンガ造りの建造物跡
イメージ 1

 内部から天井は無い
イメージ 2

 側面
イメージ 3

イメージ 4

 斜坑口(穴は写真に撮れなかった。)
イメージ 5

 レンガ造りの建造物
イメージ 6

イメージ 7

 倒壊している建造物
イメージ 8

 銅山越え方面
イメージ 9

【別子銅山Ⅵ・ミナミグチ】

 ☆第一通洞南口
 この付近一帯は通称ミナミグチと言う。別子銅山の近代化はこの付近から始まった。明治9年(1876)東延斜坑の開削が始まり明治19年には嶺北角石原から通洞が代々抗に貫通し、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1,020mに及ぶ水平抗道が初めて出現した。以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平(とうなる)へ移るまでの30年間、第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。また、明治26年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、初めて運輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、近代化の処点東延時代の一翼を担っていた。往時はこの谷にトラスト橋が架かり高橋(たかばし)製錬所まで水平軌道が延び、鉱石と製錬された粗銅(あらがね)を運んでいた。
 ☆東延地区
 この谷の上部が東延地区である。明治7年(1874)住友家が招いたフランス人鉱山師「ルイ・ラロック」の構想に基き明治9年から近代化の開発が始まった。
 あの見事な石垣の築造は2年の歳月を要して明治18年に完成したもので、面石は背後の山腹にある蛇紋岩を採石し築造した。谷川の流水は赤煉瓦30万枚を使って暗渠を構築し、用地の底を伏流させている。造成当時の用地面積は約6,600平方メートル、造成に要した作業員の数は延べ23,000人であった。ただし、冬季4~5ヶ月は積雪・凍結で工事を中断したが、その間に新居浜地区で暗渠用の煉瓦を作った。
 以上の記事は現地説明案内板より転載しました。
 写真は2010年7月16日撮影

 南口少し手前
イメージ 1

 第一通洞南口
イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 東延地区への登山道
イメージ 5

 振り返った景色
イメージ 6

 東延地区
イメージ 7

【ダイヤモンド水と高橋熔鉱炉】
 ☆高橋熔鉱炉
 古くはこの辺りの地名はタカハシであったが、明治12年(1879)頃この対岸に洋式の熔鉱炉が建設されてからは「ヨウコウロ」と呼ばれるようになった。
 ここら辺りになると沢の水の音が爽やかに聞こえてくる。山の頂上付近も沢の風景も綺麗で暑さも一息つく所です。

 ☆ダイヤモンド水
 戦後(昭和20年代)、別子鉱床の他にもう一層ある金鍋鉱床というのを探し当てるためにボーリング探査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行った。予定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当り多量の水が噴出し、ジャミングという事故が起きてロッドの先端部分がネジ切れ、掘削不能となった。ダイヤモンドを散りばめた先端部が今も孔底に残っているので、誰言うともなくダイヤモンド水とと呼ばれるようになった。
 登山者には、オアシスですよ。水も飲めるし簡易トイレもある。後頂上まで40分位だそうです。
 ここまで、写真を撮ったり、おにぎりを食べたりしながら登ってきて1時間30分です。

 ☆トラス橋の焼鉱窯群
トラス橋(地名)に製錬所があった。溶岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。これを「カラミ(鍰)」という。カラミがあるということは、ここにも製錬所があったいうなによりのあかしである。
 焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪と生の鉱石を交互に積み重ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が残る。続いてこれを荒吹炉に入れて、更に間吹炉に入れて淘汰すると、銅の含有率が90%程の粗銅となる。
 以上の記事は、現地説明案内板より転載しました。
 写真は2010年8月16日撮影
 住友病院跡
イメージ 1

 病院への橋跡
イメージ 2

 アーチ式の石組
イメージ 3

イメージ 4

 ダイヤモンド水
イメージ 5

 高橋熔鉱炉:カラミ(鍰)
イメージ 6

イメージ 7

【小学校と劇場跡】
 小学校跡
 政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務付けられるようになった。これを受けて別子銅山では明治8年(1875)に勘場(統括事務所)の下方、通称目出度町(めったまち)に私立の足谷小学校を創設した。その後も学校教育は次第に一般化し、明治19年5月には人口も急増もあって小足谷尋常小学校を建設、続いて高等小学校も併設した。更に明治27年(1894)に私立別子尋常高等小学校となった。最盛期の明治32年3月には生徒数は男女合計298名、教員は7名であった。
 別子測候所跡
 学校跡の隣で高い石垣のある所は私立別子測候所で煙害対策の一環として明治31年に設立された。
 劇場跡
 山林課と土木課の事務所兼小足谷劇場の跡で明治22年に建てられ、毎年5月の山神祭の3日間は、歌舞伎の名優をはるばる京都から呼んで、数千人の観衆をうならせたといわれる。
 別子銅山が近代化が軌道に乗り出すと、採鉱・製錬の生産部門と並行して、それを支える部門も増強されて行った。製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり、明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)には、ここを起点とする車道が中七番まで開通し、夥しい坑木や建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。明治22年(1889)山林係が山林課に昇格し、土木課では、明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。明治23年5年の別子銅山200年祭には、ここを劇場として開放し、上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。以来、毎年5月に山神祭には劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた。
 以上の記事は、現地説明案内板より転載しました。
 写真は、2010年8月16日撮影

 小学校跡
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 測候所跡
イメージ 4

 劇場跡(土木課倉庫)
イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

↑このページのトップヘ