四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 愛媛県宇和島市

天赦園【花菖蒲】
池泉回遊式日本庭園
住 所:愛媛県宇和島市御殿町
電 話:0895-22-0056
運営会社:公益法人 宇和島伊達文化財保存会
文化財等:名勝指定(1968年5月20日)、
園名由来
 宇和島藩二代藩主の伊達宗利が海を埋め立てて造成した浜御殿の一部であったが、幕末に七代藩主の伊達宗紀が慶応三年(1868)に築庭した。鬼ヶ城連峰を借景とした池泉回遊式の庭園で、大名庭園でもある。
 伊達家の家紋である竹を配しているのが特徴で、珍種も含め22種もの竹が植栽されている。
 天赦園の名は宗紀が詠んだ句(元は先祖である伊達政宗が詠んだもの)
 馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
(馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し 残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん)
H P:http://www.uwajima.org/spot/index2.html【開園時間等ここで】
資 料:ウィキペディア、パンフレット、
撮影日:2015年6月4日

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白玉藤(上り藤)
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南楽園【花菖蒲】
池泉回遊式日本庭園
住 所:愛媛県宇和島市津島町
電 話:0895-32-3344
運営会社:南レク株式会社
開 園:昭和六〇年(1985)
文化財等:日本の都市公園100選
撮影日:2015年5月4日

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南楽園 花菖蒲
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2015年5月4日撮影
愛媛県宇和島市津島町
池は濁っていましたが、緑が綺麗な公園でした。

【史跡・宇和島城】
 宇和島城は四国の愛媛県宇和島市丸之内にある。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。
 宇和島城天守は昭和9年1月30日重要文化財指定 宇和島城祉は昭和12年12月21日に史跡指定 日本100名城に平成18年(2006)4月6日選定

 宇和島城は通称 「鶴島城、板島城、丸串城」と呼ばれ、梯郭式平山城で天守構造は複合式望楼型3重3階(1602年築 非現存)独立式層塔型3重3階(1666年再 現存) 築城主 橘遠保 築城年 天慶4年(941)宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。標高74m(80mとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
 現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。五角形平面の縄張り「空角の経始」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計です。
 天守中は、廊下の内側に障子戸が残る形式は現存唯一とされ、また畳敷きの名残である「高い敷居」があり、これらは簡略化されがちとされる江戸時代中期の天守に安土桃山時代から江戸時代初期にかけての古い意匠が用いられたとされる。壁には狭間や石落しなど戦いの備えが一切なく、窓には縦格子があるものの、五角形にして外を眺めやすくしている。使い勝手や装飾が重視されていることから無防備な太平の世の建築であるといわれるが、実際はすべての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、腰程の高さにあけられた窓から直接射撃を行う設計であったと考えられている。
 外観は長押形で飾られた白漆喰総塗籠の外壁仕上げの各重に千鳥破風、唐破風を配置した外観である。天守の入り口には唐破風屋根で開放的な造りの玄関が用いられている。妻飾りには伊達家の家紋が付けられ、上から「九曜」「宇和島笹」「竪三つ引」の紋が見られ、また屋根瓦にも「九曜」が用いられている。
 以上の文は、Wikipedia・宇和島の文化財などのページから転載させて戴きました。
 http://www.city.uwajima.ehime.jp/www/contents/1286418023719/index.html

 城山(史跡・宇和島城)
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  宇和島伊達藩家老桑折(こおり)家武家長屋門
 向かって左の長屋の大部分を切り取ったので、当時の原形を失っているが、なお往時の壮大な規模と構造の特徴を知る事が出来る。門の向かって右の部屋は、元の厩(うまや)で左の長屋には、門番と家付の使用人はじめ、仲間・小者が居住していたものである。この門の建造時期は不明であるが、屋根瓦の定紋等より、元禄16年(1703)以後に、桑折家が丸之内に屋敷替えとなった際に、改造せられたものではあるまいかと思われる。また腰板等は奥州より取り寄せたとも聞く。要するに江戸中期のものと推定することができる。
 この門は宇和島市中央町一丁目の桑折医院にあった長屋門を昭和二十七年に城山東北の登城口に移転保存されてた。昭和38年2月11日に宇和島市有形文化財(建造物)に指定されています。
 文は、現地説明案内板より転載しました。
 http://www.city.uwajima.ehime.jp/www/contents/1287130627078/index.html
 長屋門前に市営有料駐車場あり

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 三の丸から登城坂
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 井戸丸跡
  宇和島城のある城山には3つの井戸が有ります。最も重要視した井戸で、ここを「井戸丸」といい、井戸丸御門・井戸丸矢倉などがあって、有事の時のため、厳重に管理させていたと推量できる。井戸の直径2.4m 周囲8.5m 深さ11mである。
 文は現地説明案内板より転載しました。 
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 櫛形門跡
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 重文宇和島城天守
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 城唯一の亀甲積石垣
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 天守内
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 野面積石垣戦国時代?。
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 宇和島城上り立ち門
 この門は、宇和島城にあった多くの城門の一つであって、搦手口から城に登る上がり口に位置している。規模は大きくないが、建築様式は薬医門形式の切妻、本瓦葺であって、丸瓦の先端のは、伊達家の家紋の一つである九曜の紋がついている。建造年代は明らかでないが、城郭全体の大改修が行われた寛文年間(1661~1672)と推定される。昭和38年2月11日に宇和島市有形文化(建造物)に指定
 尚、門の両袖木塀は管理上に設置されているものです。
 以上の文は、Wikipedia・宇和島の文化財などのページから転載させて戴きました。
 http://www.city.uwajima.ehime.jp/www/contents/1287129736479/index.html
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 写真は、2011年6月4日撮影

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【臨海山・龍光院】
 臨海山・福寿密寺・龍光院は、四国八十八箇所四十番奥院 四国別格二十霊場六番 南予七福神(毘沙門天)で愛媛県宇和島市天神町にあるお寺です。宗派は高野山真言宗 開基は栄瑜上人 本尊は十一面観世音菩薩 
 江戸時代初期の元和元年(1615)伊達秀宗が宇和島藩主として入部した。この際、宇和島城の鬼門にあたるこの地に、宇和島藩の安寧と領民の安泰を祈願して栄瑜上人を開山和尚に迎え寺院が建立された。以後、宇和島藩伊達家の祈願所となり、100石を藩より賜った。
 寛永15年(1638)大覚寺の二品宮親王が四国を巡錫した際、ここに立ち寄り臨海山福寿寺と名付けた。

 四国霊場第四十番札所観自在寺の奥の院は初めは、離れ島の九島にある願成寺(鯨大師)でした。都から遠く文化の恩恵が少ないこの地を残念に思った空海が、四国八十八ヵ所霊場の開創を発願し、成就されたのを記念して建立されたのです。寛永8年(1631)巡拝の便利が良いようにと 元結掛(もっといぎ)の大師堂に移され、明治になってさらに龍光院に合わせ祀(まつ)られました。

 椎本芳室の寶篋塔:江戸時代前期の大坂談林派俳諧の宗匠・椎本芳室(しのもと ほうしつ)の功績と長寿を讃えた寿蔵碑である。宇和島の商人で芳室の弟子である谷脇恩竹が延享3年(1746)に建立した。平成11年(1999)1月18日宇和島市指定史跡に指定。
 以上の文は、ウィキペディア・宇和島市観光協会WEBなどから転用しました。
 0895-22-0527
 写真は2011年6月4日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

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 本堂
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 大師堂
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 鐘楼
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 境内
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