四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 香川県まんのう町

【満濃池樋門と洪水吐】
 満濃池樋門と洪水吐(こうずいばき)越流式
 満濃池の規模 堤高 32,0m 堤長 155,8m 貯水量 1540万㎥ 満水面積 139ha 灌漑面積 3239ha

 大宝年間(701~704)に、讃岐の国守・道守朝臣(みちもりあそん)により金倉川の上流部を堰きとめて、満濃池が築造されました。
 弘仁九年(818)に決壊、朝廷の築池使真人浜継(まびとはまつぐ)が復旧に着手しましたが、改修がならず、空海が築池別当(つきいけべっとう)として派遣され、わずか3ヶ月足らずで周囲二里二十五町(約8.25km)面積八十一町歩(約81ha)の大池を完成させました。
 その後、450年近くを経て、鎌倉・戦国の混乱期もあり放置されたままとなっていた満濃池の修復を、生駒讃岐守が家臣西嶋八兵衛に命じました。寛永八年(1631)に修復事業は完成し、再び三十三郡四十四ヶ村の田を潤すことになりました。
 その後も、安政元年(1854)の大地震で再び破堤し、高松藩執政(しっせい)松崎渋右衛門(まつざきしぶうえもん)の支援のもと、榎井村の長谷川佐太郎(はせがわさたろう)らの尽力によって明治三年(1870)に復旧、その後数回のかさ上げ工事を経て、昭和三十四年(1959)、現在の満濃池となりました。
 雨に恵まれなかった香川県では、水利慣行という水にまつわる厳しい決まりがありました。満濃池にも、証文水区域(しょうもんすい)という慣行があり、時間水、反別割り(たんべつわり)、石高分水位(こくだかぶんすいい)、線香水(せんこうみず)などさまざまな方法で水を分け合っていました。こうした命がけの水分配をしなくとも、十分にすべての田に水が入るようになったのは、それまでの二倍の貯水量となった昭和三十四年の改築以後でした。

 環境省選定音風景百選「満濃池のゆるぬきとせせらぎ」
 文化庁登録有形文化財 平成十二年二月十五日認定
 文は香川県農政水産部土地改良課HPなどより転載しました。
 写真は2012年6月25日撮影
 場所はワイワイマップ『歴史的縁の地、文化財、資料館などのMAP』にスポット投稿します。
 周辺施設 国営讃岐まんのう公園(有料)、満濃池森林公園、蛍見公園、

 樋門(登録有形文化財)
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 洪水吐からの落水
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 満濃池洪水吐越流式(2009年2月4日撮影)
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 分水堰
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【木戸の馬蹄石】
 木戸の馬蹄石 香川県まんのう町琴南 香川県指定自然記念物(昭和51年3月23日指定)
 土器川河川床にある和泉層群基底部砂岩中の「カキ」の化石層で厚さ約1mの砂岩中に密集して、化石床を形成しており、化石層が数枚認められる。また砂岩、頁岩、互層部の差別浸食模様が顕著である。川に下りると、露出した岩床に見事な馬蹄に似た紋様が見られる。この岩に、渓流の飛沫が当り、その景観は素晴らしい。

 この馬蹄石にまつわる伝説がある。源平合戦の折、源義経が源氏の本隊を率いて、阿波から真鈴を越え、勝浦に出てここ中通に来た。沼の淵で馬をとめて、しばしば休憩をした蹄の跡がついたという。
 昔の人々は一つの自然を見るにも、詩情がよたかであったのであろう。
 琴南町(現まんのう町琴南)説明板より転載しました。
 夏場の水遊びには絶好のスポットに見える。駐車は数台可能。
 写真は2012年5月31日撮影
 場所はワイワイマップ『滝・奇岩map』にスポット投稿します。

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【落合神社の枝垂れ桜】
 落合神社 香川県満濃町琴南勝浦に鎮座 祭神 瀬織津比売神、大直日神、伊豆能売神、速佐須良比売命、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、

由緒
 口伝によると、落合明神は川の瀬の神である。神櫛王の裔小高命がこの地にとどまられた時奉祀さられたという。この地は土器川の源流勝浦川の水と、川奥から流れ出る明神川の水が落ち合う所なので、瀬の神を祀ったという。
 現存する落合神社の最も古い棟札は、貞享二年(1685)で、大願主鵜足郡阿野郡惣氏子中、本願主「佐野勘兵衛」、「笠井五左門」となっている。古くは、落合大明神と呼ばれたが、明治二年(1869)、神仏分離によって落合神社となった。
 寛文九年(1669)の御領分中宮由来によると、「落合大明神 本地天津児屋根尊 内証観音菩薩 惣氏子建立の年代知不申し候以上」とある。
 その後、国道バイパス工事で嵩上げ移転して現在地に鎮座する。

 枝垂れ桜
 枝垂れ桜は、移転の時に植樹したのでしょうか、昔の写真には写ってないようである。他に植わっていたのであれば狛犬脇に移植したのでしょうか不明です。花は、小さく一重の可愛い花の枝垂れ咲です。

 借耕牛(かりこうし)のおこり
阿波の国から讃岐の農家に常雇いとして雇われている男を「借子(かりこ)」といった。阿波山間部では、主食の自給が困難で、讃岐に働きに来る事を米の「借り出し稼ぎ」と称していた。また、天保(1830~44)の頃は、讃岐には砂糖黍(さとうきび)を締める多くの人夫(締子)が必要で、主として阿波の三好・美馬郡から締子(しめこ)と一緒に牛が出稼ぎに出るようになった。この形態が次第に牛のみとなり、更に農耕用に賃借りしる牛の事を「借耕牛」というようになったといわれている(四国農業試験場しらべ)。
 この借耕牛は、阿讃の峠を越えて讃岐に入ったが、琴南町(現まんのう町琴南)川東の明神は美合口といわれ、多数の牛が往来した。
 徳島県三好・美馬郡は、山間傾斜地帯で畑地が多く、牛の飼料となる草資源が豊富で、しかも畑作物の副産物の芋蔓・黍・蕎麦などが多くて牛が飼いやすく、どの農家も牛一頭は飼育していた。その上、水田は10アール位しかなく、田植えも山間地帯で早く済、讃岐と相補うものがあった。
 香川県の平坦部は、水田が多く牛を必要としたが、芋などの飼料に乏しく稲藁は加工用(俵・筵・叺・縄など)に使用するため小規模の農家では牛の飼育は困難であった。また、香川県平坦部は稲・麦の二毛作のため、田植え時期が遅く、徳島側から借耕牛をするのに都合がよかった。
 このように畜力を必要とする借り方があって、それに対応できる貸し方があることが基本的条件であるが、その上にこの報酬が「米」であったいう事も意義がある。徳島県は米が少なく、報酬に米が得られる事は大きな魅力であり、香川県側は米が豊富で、現金で支払うより現物の方が出しやすかったということが借耕牛の特徴で、「米取牛」「米牛」と呼ばれたゆえんである。
 借りては、綾歌・仲多度郡を中心に、東は香川・木田・大川郡、西は三豊郡で香川県全域であった。昭和35年ころから動力耕運機の普及により、急速に借耕牛は姿を消した。
 昔、明神集落では、牛小屋・宿屋・豆腐屋・饂飩屋などがあって賑っていた。
 文は香川県立図書館蔵琴南町誌(現満濃町琴南)より転載しました。
 写真は2012年4月12日撮影
 場所はワイワイマップ『綺麗な花が咲く所のMAP』にスポット投稿します。

 石鳥居
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 拝殿
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 中殿本殿
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 枝垂れ桜
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【富隈神社と丁石】
 富隈神社は香川県まんのう町公文の金毘羅参詣道丸亀街道沿いの公文山の山腹に鎮座いしています。
 富隈神社は、藩政時代には、金毘羅参詣客に、公文の茶堂と共に親しまれた。社殿の後ろの丘は古墳地帯で「さしば」の埴輪も出土しており、横穴式古墳の石室を利用して造られたと思われる「木食善住善人」の入定址がある。正面参道階段両側に金毘羅参道から移された石灯籠と丁石6本(百十九丁・百?三丁・百十七丁・百六丁・九二丁・不明)がある。

 ★木食善住上人の入定塔
 木食善住上人は、寛政8年(1796年)3月11日、丹後国宮津に生まれた。
24歳のとき、讃岐金毘羅神に誓って仏門に入った。名を「源心」と改め、箸蔵寺、高野山、金剛山等で修業を積み、江戸深川霊運寺の泰山和尚によって灌頂を受けた。
 験道をもって諸国を廻り、嘉永3年(1850年)公文村(現まんのう町公文)にとどまり、金毘羅街道側に護摩堂を建て、不動尊を安置して諸人のために加持祈禱を行い、暇あれば、仏像を彫刻した。
 丸亀藩・岡山藩にも立ち入りを許されていた。明治3年(1870年)秋入定の業に入り、同年10月16日寂滅した。
 明治3年10月16日信徒によってこの入定塔が建立された。
 以上の記事は、現地説明案内板より抜粋しました。写真は、2010年7月8日撮影
 地図:わいわいマップにスポット登録しておきます。
 参道
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 隋神門
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 拝殿
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 本殿
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 境内の石塔
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 木食善住上人の入定塔
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<><>五穀山・神野寺のモミジ<><>
 五穀山・神野寺は香川県まんのう町神野の満濃池の畔の高台にある弘法大師所縁のお寺です。
 五穀山・神野寺は四国別格二十霊場第十七番札所で秋のモミジは香川の名所になっています。
 勅命で弘法大師が満濃池の修築の為此の地に帰って来て人々の考えられない早さで仕事を終えたと云う 。大師を慕う人達が近郊は勿論遠方からも大勢集まり為し得た仕事で在ると云う、821年(弘仁12年)に弘法大師が大改修を行った人数は推定32万人と記され、当時の讃岐国の人口は28万人程であることを考えると、いかに多くの人員を動員した大事業であるかということがよくわかる。だがこの大改修で築かれた堰堤もしばらく後に再度決壊、1184年(元暦元年) 決壊以後は再建されず放棄された。
 神野寺も長宗我部氏の讃岐侵攻により焼失したが昭和の初めに再興された。大師像は池を見守る様に立っている。この大師像と池の間に大師が造った樋門が残っている。
 写真は2009年11月19日撮影

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