四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 香川県三豊市

【延寿寺のさくら】
 延寿寺 宗派 高野山真言宗 本尊 不明 香川県三豊市豊中町下高野2147
 平成15年(2003)の四国新聞ニュースでは、境内で「しだれ桜」が満開になっている。壇家の人たちが丹精込めて育てた花々が流れるような美しい孤を描き、淡いピンクの花が参拝者の目を楽しませている。の記事があるが現在は若木が植えられている。新聞に出ているような見事な枝垂れ桜は無いが、老木の染井吉野が綺麗な花を咲かしていた。花の下では近在の人達でしょうか?酒盛りが行われていた。夜桜見物用のぼんぼりも設置されていて夜桜見物も綺麗でしょう。

 このお寺には、百姓一揆と云うエピソードが残っています。
 七宝山の南東麓にあり、昔から桜の名所として知られているお寺ですが。寛永年間の一揆から123年後の明治6年(1873)6月26日の夕方、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言のあった直後、下高野村の「矢野文治」が延寿寺で早鐘を鳴らし続けて人々を集め暴動にかりたてたことが、西讃血税一揆(竹槍騒動)の発端になったといわれています。「矢野文治」は打首となっています。

 <><>子ぅ取り婆あ
 下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が2人の女の子を抱え、手には竹槍を持ちどこかに飛び出していった。この女を捕まえた下高野村の住民が、「子ぅ取り婆あ」があらわれた、と言って騒いだという。
 
 <><>西讃竹槍騒動
 この一揆のきっかけには、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という歌がはやっていたのも関係するらしい。戸長が取調べを行おうとしたが、それを不服としたものたちが戸長に暴行、それに群集が興奮し次第に数を増していき、2万人に達した。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだのち、翌27日には、騒ぎは三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに東へと広がっていった。
 農民の要求は「徴兵令反対、学制反対」また、『肉食行はれしより牛価騰貴貧民困却』と唱えた。これは、牛食が認められると、それが耕作に必要な牛の値まであげ、農業生産を圧迫するのだ、という理屈からきたものであったらしい。農民たちは焼き打ち、打毀し、戸長事務所、小学校、戸長宅、邏卒出張所や民家など計599箇所を破壊した。
 農民は徴兵以外にも、新政のいろいろに不満をもっていたが、1872年に施行された学制に対するそれも大きかった。学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられ、辛いものであったとされる。一揆の鎮圧後、名東県(昔の香川県)は「速かに学校を興すべき達」という通達をだし、小学校の復興をいそいだ。

 <><>寛延年間の百姓一揆計画指導者
 百姓の嘆願書は粗認められたかに見えたが、幕府からの百姓の強訴・徒党の禁令によって全てを反故され金倉川原で磔の刑に処せられた。150年後義民として首謀者の7人は神として祀られました。
 三野郡笠岡村(現三豊市豊中町)の大西権兵衛・弥一郎・嘉兵衛、多度郡碑殿村(現善通寺市)甚右衛門、多度郡三井村(現多度津町)金右衛門 後に七義士神社(権兵衛神社)に旧笠田村に祀られています。
 文は讃岐の風土記 by 出来屋&WikipediaなどのWEBから転載しました。
 写真は2012年4月8日撮影
 場所はワイワイマップ『綺麗な花が咲く所のMAP』にスポット投稿します。

 遠景
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 山門
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 本堂
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 鐘楼
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 境内
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 やぶ椿
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 山門横にある金毘羅灯籠
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【七宝山・本山寺】
 四国八十八ヶ所霊場第70番・七宝山(しっぽうざん)・本山寺(もとやまじ)・持宝院(じほういん)は香川県三豊市豊中町本山にあるお寺で 宗派は真言宗高野派 本尊は馬頭観世音菩薩(伝空海作) 開基は空海

 大同二年(807)平城天皇の勅願により、国家鎮護を祈願した空海が、一夜のうちに堂宇を建立し本尊として馬頭観世音菩薩を刻んで安置したのがはじまりであり、本尊彫刻と阿弥陀如来、薬師如来も同時に刻んだ
 本山寺珍しいことに、戦国の兵火や火災などは免れている。
 空海が建立したと伝えられる五重塔は、前住職「頼富美毅師」が明治四十三年に再建した。
 以上の文は四国八十八ヶ所詳細地図帖より転載しました。

 本堂=国宝(建造物)昭和30年6月22日(1955)指定 正安二年(1300)の建立で、密敎本堂の好例で、意匠面白く、内部厨子も優秀である。
 瀬戸内海沿岸地方の折衷様建築を示す。
 鎌倉時代の建物で、寄棟造り本瓦葺き、屋根の線がなだらかで美しい。桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、向拝三間、本瓦葺で、堂内は外陣、内陣(広く)後陣(狭く)を自由におさめている点が極めて功みで、これが平面的特徴である。仏壇及び厨子も当初のもので、建築的にも優れている。

 仁王門=重要文化財(建造物)明治37年8月29日(1904)指定 室町中期(1393-1466)、三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺
 組物、肘木、虹梁、冠木などの和様を主体として禅宗様や天竺様式を組み合わせ、新しい様式を見せて美しい、他に類例が少ない貴重な建物である。
 以上の文は、現地説明板&国指定文化財等データーベースより転載・参照しました。
 0875-62-2007
 写真は2012年2月12日撮影
 場所はワイワイマップの(空海ゆかりの地map)にスポット投稿します。

 仁王門=重文
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 本堂=国宝
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 大師堂
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 鐘楼
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 手洗盥
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 大門
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 修行空海像 
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 護摩堂
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 五輪塔=市指定有形文化財
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 鎮守堂=県指定有形文化財
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【七寳山・岩屋寺】
 七宝山(しっぽうざん)・岩屋寺(いわやじ) 香川県三豊市高瀬町比地の七宝山南中麓にあります。(現在は住職不在) 宗派は高野山真言宗 
 本尊は、木造聖観世音菩薩立像(145cm)で平安前期(10世紀)=香川県三豊市指定文化財(彫刻)昭和60年 5月24日
 この菩薩は一木造りで、頭に宝髻(ほうけい)をまばら彫りで表し、眉間に白毫(びゃくごう)の痕跡を残している。上半身裸身で、左肩から条帛(じょうはく)をかけ。背から天衣を垂下し、下半身には裳を付けている。(文は現地説明板より)
 全体に素朴で、地方性豊かな作風で等身大の堂々とした菩薩であり、当地の遺品の中でも特筆すべく佳作である。
 住職不在でも檀家や地元民の尽力で清掃奉仕を行っていて境内は綺麗に手入れが行き届いている。境内にはモミジが美しく紅葉しているはずなのですが、今年は黄色いまま落葉しているようです。銀杏の木もあって黄色い絨毯が敷かれたようでした。
 写真は2011年12月13日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

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 お堂
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 お堂内
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 秩父・坂東霊場舟形石像群
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 秩父三十四箇所一番
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 坂東三十三箇所一番
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 境内の紅葉
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【香川の茶どころ「高瀬茶」】
 三豊市高瀬町二ノ宮地区で2011年度の茶摘みが4月26日一番茶の収穫が始まった。
 高瀬茶業組合によると、高瀬では63戸が65ヘクタールで茶を栽培し、例年500トン程度の収穫をしている。
 今年は春先の低温などで生育が10日前後遅れていたが、味、香り、色と三拍子そろった良茶が収穫出来てるとのことです。
 4月29日には「さぬき二ノ宮ふる里まつり」(実行委主催)が開かれる。茶摘み体験や新茶の接待などがある。9:00~15:00(小雨決行)。
 高瀬茶の由来
 高瀬の二ノ宮地区に広がる茶畑。高瀬町における茶の栽培のもとは農家の人が、畑の畔道に植えられていた茶を、水田の田草取りが終えた頃、硬化した茶葉を大釜で煮て、夏の太陽で干し番茶を自給自足していたと言われています。また、古老の話では、丸亀藩主に献納した茶畑があったとも言われています。
 昭和30年頃から実生園に始まり徐々に拡大し、現在では香川県のお茶生産高の6割をしめています。
 文は三豊観光協会ホームページ等より参照しました。
 写真は2011年4月28日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。
 アクセス:高松からは国道377号砂川交差点を右折(県道288号に入る。)大水上神社方面へ、賢見神社方面(看板あり)に右折して、「さまた工業」様工場前を進み、後は茶畑ウォーキングコースに進んでください。(駐車場は有りません。)
 通り過ぎるとKanamaru様建物のフェンスに「喰いどころ・いらっしゃい・来ないや」の手書きの看板が見えます。

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【天霧城跡】
 天霧城跡は香川県三豊市三野町と仲多度郡多度津町の境にある天城山の山頂に中世山城の形態が残っている山城である。本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、空堀跡などが残っている。
 天霧城(天霧城代:河田伝右衛門)は室町時代末期から安土桃山時代の西讃(西香川県)の守護代「香川之景」の牙城であった。
 多度、三野、豊田三郡(後に那珂を加えた四郡)を領する。通称五郎次郎。居城は讃岐国多度郡本台山城で有事に際しての牙城として天霧城を有する。紋は巴九曜を用いている。一説に法名を釈通庵と伝わる。 はじめは管領細川氏に仕え、後に三好氏に実権が移るとその旗下に入るが、安芸毛利氏の支援を得ながら独立状態を保つ。 長宗我部元親が台頭すると織田信長に近づき偏倚を与えられ信景と名乗る。 元親の讃岐侵攻が始まるとその次男親和を養子とし、傘下となった後は四国統一事業のため讃岐の諸将に降伏を勧めるなど外交に奔走した。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の四国征伐の後改易される。
 香川家の墓標は弥谷寺にあるが、そこに信景(之景)は眠っていない。
 以上の文は、WEBより抜粋しました。
 アクセス:三野町の弥谷寺への途中から四国の道白方方面(歩き遍路道)へ下る手前(三差路)を右折する。赤いテープに添って登って行く。
 写真は2009年2月13日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

 我拝師山から天城山方面
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 本丸跡
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 二の丸跡
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 三の丸跡
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 天霧城主「香川家」代々の墓
 天正13年8月秀吉軍の四国攻めにより香川氏は滅亡して400年、詣でる人とてなく半ば土砂に埋もれ雑草に覆われて密かに眠っていた。場所はここより上方100m本堂西「西院」の旧跡にあった。
 昭和59年、住職「建林良熈」が回向のため現在地に移したものである。 
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