【延寿寺のさくら】 |
平成15年(2003)の四国新聞ニュースでは、境内で「しだれ桜」が満開になっている。壇家の人たちが丹精込めて育てた花々が流れるような美しい孤を描き、淡いピンクの花が参拝者の目を楽しませている。の記事があるが現在は若木が植えられている。新聞に出ているような見事な枝垂れ桜は無いが、老木の染井吉野が綺麗な花を咲かしていた。花の下では近在の人達でしょうか?酒盛りが行われていた。夜桜見物用のぼんぼりも設置されていて夜桜見物も綺麗でしょう。
このお寺には、百姓一揆と云うエピソードが残っています。
七宝山の南東麓にあり、昔から桜の名所として知られているお寺ですが。寛永年間の一揆から123年後の明治6年(1873)6月26日の夕方、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言のあった直後、下高野村の「矢野文治」が延寿寺で早鐘を鳴らし続けて人々を集め暴動にかりたてたことが、西讃血税一揆(竹槍騒動)の発端になったといわれています。「矢野文治」は打首となっています。
七宝山の南東麓にあり、昔から桜の名所として知られているお寺ですが。寛永年間の一揆から123年後の明治6年(1873)6月26日の夕方、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言のあった直後、下高野村の「矢野文治」が延寿寺で早鐘を鳴らし続けて人々を集め暴動にかりたてたことが、西讃血税一揆(竹槍騒動)の発端になったといわれています。「矢野文治」は打首となっています。
<><>子ぅ取り婆あ
下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が2人の女の子を抱え、手には竹槍を持ちどこかに飛び出していった。この女を捕まえた下高野村の住民が、「子ぅ取り婆あ」があらわれた、と言って騒いだという。
<><>西讃竹槍騒動
この一揆のきっかけには、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という歌がはやっていたのも関係するらしい。戸長が取調べを行おうとしたが、それを不服としたものたちが戸長に暴行、それに群集が興奮し次第に数を増していき、2万人に達した。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだのち、翌27日には、騒ぎは三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに東へと広がっていった。
農民の要求は「徴兵令反対、学制反対」また、『肉食行はれしより牛価騰貴貧民困却』と唱えた。これは、牛食が認められると、それが耕作に必要な牛の値まであげ、農業生産を圧迫するのだ、という理屈からきたものであったらしい。農民たちは焼き打ち、打毀し、戸長事務所、小学校、戸長宅、邏卒出張所や民家など計599箇所を破壊した。
農民は徴兵以外にも、新政のいろいろに不満をもっていたが、1872年に施行された学制に対するそれも大きかった。学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられ、辛いものであったとされる。一揆の鎮圧後、名東県(昔の香川県)は「速かに学校を興すべき達」という通達をだし、小学校の復興をいそいだ。
下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が2人の女の子を抱え、手には竹槍を持ちどこかに飛び出していった。この女を捕まえた下高野村の住民が、「子ぅ取り婆あ」があらわれた、と言って騒いだという。
<><>西讃竹槍騒動
この一揆のきっかけには、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という歌がはやっていたのも関係するらしい。戸長が取調べを行おうとしたが、それを不服としたものたちが戸長に暴行、それに群集が興奮し次第に数を増していき、2万人に達した。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだのち、翌27日には、騒ぎは三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに東へと広がっていった。
農民の要求は「徴兵令反対、学制反対」また、『肉食行はれしより牛価騰貴貧民困却』と唱えた。これは、牛食が認められると、それが耕作に必要な牛の値まであげ、農業生産を圧迫するのだ、という理屈からきたものであったらしい。農民たちは焼き打ち、打毀し、戸長事務所、小学校、戸長宅、邏卒出張所や民家など計599箇所を破壊した。
農民は徴兵以外にも、新政のいろいろに不満をもっていたが、1872年に施行された学制に対するそれも大きかった。学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられ、辛いものであったとされる。一揆の鎮圧後、名東県(昔の香川県)は「速かに学校を興すべき達」という通達をだし、小学校の復興をいそいだ。
<><>寛延年間の百姓一揆計画指導者
百姓の嘆願書は粗認められたかに見えたが、幕府からの百姓の強訴・徒党の禁令によって全てを反故され金倉川原で磔の刑に処せられた。150年後義民として首謀者の7人は神として祀られました。
三野郡笠岡村(現三豊市豊中町)の大西権兵衛・弥一郎・嘉兵衛、多度郡碑殿村(現善通寺市)甚右衛門、多度郡三井村(現多度津町)金右衛門 後に七義士神社(権兵衛神社)に旧笠田村に祀られています。
文は讃岐の風土記 by 出来屋&WikipediaなどのWEBから転載しました。
写真は2012年4月8日撮影
場所はワイワイマップ『綺麗な花が咲く所のMAP』にスポット投稿します。
百姓の嘆願書は粗認められたかに見えたが、幕府からの百姓の強訴・徒党の禁令によって全てを反故され金倉川原で磔の刑に処せられた。150年後義民として首謀者の7人は神として祀られました。
三野郡笠岡村(現三豊市豊中町)の大西権兵衛・弥一郎・嘉兵衛、多度郡碑殿村(現善通寺市)甚右衛門、多度郡三井村(現多度津町)金右衛門 後に七義士神社(権兵衛神社)に旧笠田村に祀られています。
文は讃岐の風土記 by 出来屋&WikipediaなどのWEBから転載しました。
写真は2012年4月8日撮影
場所はワイワイマップ『綺麗な花が咲く所のMAP』にスポット投稿します。
遠景
山門
本堂
鐘楼
境内
やぶ椿
山門横にある金毘羅灯籠
山門
本堂
鐘楼
境内
やぶ椿
山門横にある金毘羅灯籠