四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 香川県坂出市

千當丸就航記念碑
住 所:香川県坂出市与島町
場 所:与島穴部バス停近く
マピオンマップ↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/34.38720991814617,133.8189455680536,19
マップコード:
391 788 077*73
解 説
 千當丸由来記
 香川県仲多度郡與島村(現坂出市)五島は離島の為極めて海上の便が悪く病人発生の場合等は特別仕立ての舟で地方の医者に診察を受けた。
 與島村の森安藤太郎は島民の利便と発展に定期に便船を運航する事が是非必要と考え大正十三年、下津井港(倉敷市)を起点として櫃石島・岩黒島・與島・瀬居島・坂出の旅客定期便航路事業の免許を得て初めて運航を開設した。運行事業は強風、濃霧外幾多の困難を乗り越えて懸命に努力した。
 昭和二十八年四月千當丸の運航實跡により與島村は坂出市に合併され坂出市与島町となり運航回数も四往復に増便し、各島に勤務する教職員吏員及び学生の通学も一段と便利になり、各島の郵便集配、日常家庭必需物資の輸送、島民の家内工業の斡旋等島の発展の為極めて大きな貢献をした船である。
  平成二十一年春分 船主
アクセス:与島第2駐車場与島より徒歩移動。バス移動。島民以外は車の乗り入れは不可。 
資 料:現地説明板など、
撮影日:2015年9月2日
近隣施設:鍋島燈台与島パーキングエリア坂出市

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崇徳上皇白峯御陵
住 所:香川県坂出市青海町
マピオンマップ↓↓↓↓↓
 
 長寛二年(1164)8月26日、46歳で崩御された崇徳上皇は,遺体を八十場の泉に浸さた後、9月16日に白峰山で荼毘に付され、その場に葬られました。お墓である御陵は、積み石の方墳であったといわれています。
 都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒廃していたといわれています。
 初代高松藩主松平頼重(よりしげ)、五代頼恭(よりたか)、十一代頼聡(よりとし)らにより、修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど、今日みられるように整備されました。
崇徳上皇ゆかりの地↓↓↓↓↓

白峰寺よりの参拝ルート
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神社名:白峰宮
主祭神:崇徳天皇
創 祀:
住 所:香川県坂出市西庄八十場
マピオンマップ↓↓↓↓↓
電 話:
由 緒
 長寛二年(1164)八月、崇徳上皇鼓岡にて崩御ましまし時に京都へ奏聞を経てご返答を待つ間、残暑の節なりし御尊骸を此の地野沢井に奉安した。程なく白峰山に葬奉るべき旨宣下あったので、九月十六日御殯柩当地を発し、十七日高屋を経て、十八日白峰山に荼毘し陵を築き奉った。当地はかゝる聖蹟なるを以って、二条天皇宣下し給いて社殿を建てさせられ、同年十月十日、神霊を鎮め祭らしめ給うた。
伝 説
 讃岐院(崇徳上皇)が長寛二年(1164)八月二十六日に亡くなった時、荼毘に付す勅許が届くまで三十七日間、遺体は弥蘇場の霊泉で保存された。そこに毎夜のごとく怪しい光が現れて人々を怖がらせた。
 このため二条天皇は怪しい光の現れた場所に社を造営し白峰宮と名付けた。人々はそれを「明の宮」呼んだ。
 
文化財等:香川県の保存木122(白峰宮のクスノキ)平成2年3月27日指定
資料等:坂出市誌、四国新聞探訪かがわの「都市伝説」ミステリースポット編37、
撮影日:2017年3月22日

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樹高23.5m 胸高幹回り5.8m
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 塩竃神社 祭神 大綿津見神(海の神)
香川県坂出市常磐町2丁目
 聖通寺山中腹にある鹽竈神社は、文政11年(1828)、坂出塩田の安全・繁栄を祈願して、宮城県塩竈市の
鹽竈神社から、中湛甫の地に勧請したものです。天保8年(1837)、新たに社殿を明神町(現:中央町)に建立
しましたが、旧国道11号線(現:県道33号線)の拡幅に伴い、昭和39年(1964)10月坂出塩田を一望する聖通寺
山中腹に移築されました。
 境内には久米通賢と松平頼恕を祀る坂出神社があり、通賢や津島寿一の銅像もあります。
 由緒
 当神社は文政十一年(1828)高松藩主、松平頼恕公が、坂出の塩田の安全と繁栄を祈願して、塩田の開墾
に当たった久米通賢翁に命じて中湛浦(現・築港町一丁目)に奉斎したのが始まりです。
 その後、天保八年(1837)塩田構築による坂出の急速な発展に鑑み、坂出市文明町(現・中央町坂出市立
中央小学校北隣)に遷宮、さらに昭和三十九年(1964)、旧国道十一号線の拡幅に伴い境内内地が狭くなる
ため、坂出市を一望する聖通寺山中腹に再遷宮し奉り現在に至っています。
 一七〇余年に二度も遷宮することになったのも、偏に塩業の繁栄による坂出市発展の起因するものです

文はゼンブル様HP&古のさかいでHPなどより転載しました。
写真は2013年4月24日撮影
場所はスポットノート『神社祠map』に投稿します。
 
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本殿
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しほがま桜(国指定天然記念物継木)
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盬窯記念館
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坂出神社と久米通賢銅像
http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/37798790.html
 
 
地神社と地神井戸
 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/37777972.html
 
西光寺支坊の通賢の墓
http://blogs.yahoo.co.jp/sanukimesatobuttestyle/31559810.html
 
坂出市郷土資料館と久米通賢
http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/31384511.html
 
久米 通賢碑と墓
http://blogs.yahoo.co.jp/sanukimesatobuttestyle/31517048.html .
 
阪出墾田之碑
http://blogs.yahoo.co.jp/sanukimesatobuttestyle/31602098.html
 
坂出の地名の語源は「宇多津の田尾坂を上って出た場所」と言う事。
明治23年(1890)2月15日 町村制施行に伴い、阿野郡坂出村(さかいでむら)が町制施行し、坂出町(さかいで
ちょう)が発足。
坂出市の昭和の写真↓↓↓↓
http://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/tosyokan/lib-eizou-syowa1.html.

 坂出神社 祭神:事代主命・久米通賢命・松平頼怒命
 祭神久米通賢命は東讃馬宿の人、時勢を考察國利民福を念願し、必苑の覚悟で高松藩に坂出墾田を建白、
私財・借財と全智を傾けて、文政十二年に二百数町歩の坂出墾田を完成、殊に百十五町歩の久米式塩田から
製する塩は、坂出の特産となって村と藩を富まして日本一の製塩地坂出の基となった。
 祭神松平頼怒命は第九代高松藩主、通賢の英智と誠意を認め、藩意を押して自らの納戸金を工事費に充て
させ坂出墾田を奨めた英主である。
 この恩恵によって坂出は日を追って富み栄え町民挙げて通賢翁と頼怒公を坂出の守護神と崇め尊び、昭和
 九年十二月塩竈神社境内に新た社殿を建立し、その御霊を創祀して坂出神社と稱した。
 頼怒公が建てた坂出墾田之碑は天神神社内にある。↓↓↓↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/sanukimesatobuttestyle/31602098.html
 以上の分は、現地説明板より転載しました。
 写真は2013年4月24日撮影
 場所はスポットノート『神社祠map ・石塔・石碑などのmap』に投稿します。
坂出神社
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久米栄左衛門通賢像
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 勅使灯篭
 慶応四年八月、明治天皇勅使をわが坂出に遣わして白峰山の崇徳院御霊代を京都に奉遷し給う。その盛事古今未曾有村民謹んで神輿を送迎し奉る。同年九月有志相謀り港に燈籠を建てて記念とす。村民これを勅使燈籠と呼んで当時を偲ぶ。昭和八年港湾拡張の際除かれて荒廃す。いま明治百年を迎えるにあたり港を見下ろすこの地に補修再建してこれを後世に伝えんとす。
 昭和四十三年八月吉日 再建寄進者 阿河武千代  
 父の志を記す。 平成十一年十二月吉日 阿河益太郎
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坂出の地名の語源は「宇多津の田尾坂を上って出た場所」と言う事。
明治23年(1890)2月15日 町村制施行に伴い、阿野郡坂出村(さかいでむら)が町制施行し、坂出町(さかいでちょう)が発足。
坂出市の昭和の写真↓↓↓↓

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