【三部神社と阿弥陀堂】 |
◇有木と平有盛伝説
五郷・有木谷は、源平屋島合戦の後、平有盛が隠れ住んでいたところだといわれています。
小松少将有盛は、平重盛の子、清盛の孫にあたる人物で、歴史の本では、長門の壇ノ浦で自害して果てたと伝えられていますが、有木には、左衛門尉某、あるいは、有木左衛門という変名を使って、屋敷を構えていたと思われる地名やそれにまつわる物語が数多く残されている事から、長い年月この地にとどまったと信じられています。
それを証拠立てる一つが、逃げ延びる際に携えてきたと伝えられる阿弥陀如来座像、名剣小烏丸、陣太鼓などの品々です。
地元では「ありもりさん」と呼ばれていて、「阿弥陀木造」「陣太鼓」「名剣小烏丸」などが残されている。
文は香川県神社HPより転載しました。
五郷・有木谷は、源平屋島合戦の後、平有盛が隠れ住んでいたところだといわれています。
小松少将有盛は、平重盛の子、清盛の孫にあたる人物で、歴史の本では、長門の壇ノ浦で自害して果てたと伝えられていますが、有木には、左衛門尉某、あるいは、有木左衛門という変名を使って、屋敷を構えていたと思われる地名やそれにまつわる物語が数多く残されている事から、長い年月この地にとどまったと信じられています。
それを証拠立てる一つが、逃げ延びる際に携えてきたと伝えられる阿弥陀如来座像、名剣小烏丸、陣太鼓などの品々です。
地元では「ありもりさん」と呼ばれていて、「阿弥陀木造」「陣太鼓」「名剣小烏丸」などが残されている。
文は香川県神社HPより転載しました。
◇阿弥陀堂
阿弥陀如来座像=香川県指定有形文化財(彫刻)平成二年六月二十九日指定
檜材寄木造 平安時代(十一世紀) 像高52.5㎝ 香川県教育委員会
本体を作る各材は、ほぼ1㎝程度の薄手に巧みに刳り、体軀は、薄作りとなる。外見も相応して形姿よく整い、細目の螺髪を刻出し、頬の張り豊かに然も、引き締まった面相は優美と云うに相応しい。
均斉のとれた体軀に、衣文は浅くおとなしいく刻みだし、いかにも藤原的な穏やかさで、その気分は肉身の表現全般に感じる。作風は中央的なものが強く、県内のこの時期の彫刻として優作の一つとすべきである。
文は現地説明板より転載しました。
写真は2012年5月14日撮影
場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。
阿弥陀如来座像=香川県指定有形文化財(彫刻)平成二年六月二十九日指定
檜材寄木造 平安時代(十一世紀) 像高52.5㎝ 香川県教育委員会
本体を作る各材は、ほぼ1㎝程度の薄手に巧みに刳り、体軀は、薄作りとなる。外見も相応して形姿よく整い、細目の螺髪を刻出し、頬の張り豊かに然も、引き締まった面相は優美と云うに相応しい。
均斉のとれた体軀に、衣文は浅くおとなしいく刻みだし、いかにも藤原的な穏やかさで、その気分は肉身の表現全般に感じる。作風は中央的なものが強く、県内のこの時期の彫刻として優作の一つとすべきである。
文は現地説明板より転載しました。
写真は2012年5月14日撮影
場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。
阿弥陀堂内部
石鳥居参道
拝殿内部
本殿
境内
境内からの眺め
◇けし椿
平家一門の都落ちに伴い、平有盛は屋島より逃れて南條郡山田の郷に於いて仏門に入り、法専坊を開基せりと伝えられる。
其折坊の傍らに「けし椿」を植えて愛したりと言う。その古木の一枝をゆずり受け挿木となし茲に移植したるものなり。阿弥陀の尊像と共に有盛の心情に思いを馳せ永く記念するものなり。昭和六十一年四月吉日。
文は現地説明板より転載しました。
石鳥居参道
拝殿内部
本殿
境内
境内からの眺め
◇けし椿
平家一門の都落ちに伴い、平有盛は屋島より逃れて南條郡山田の郷に於いて仏門に入り、法専坊を開基せりと伝えられる。
其折坊の傍らに「けし椿」を植えて愛したりと言う。その古木の一枝をゆずり受け挿木となし茲に移植したるものなり。阿弥陀の尊像と共に有盛の心情に思いを馳せ永く記念するものなり。昭和六十一年四月吉日。
文は現地説明板より転載しました。