【原間1号墳】 |
古墳が築かれている場所は虎丸山から北に派生した一支脈上にあり、原間集落の南西隅である。四方は丘陵に囲まれて平野が眺められない位置で、場所的にはあまり良い所ではない。
墳丘は直径10mの円墳で、規模としては普通の大きさである。内部には、全長6mの片袖式横穴式石室が築かれている。
奥壁は一枚の巨石が使われており、側壁は五段積である。床には礫が敷かれるいわゆる礫床の可能性が強い。
出土遺物は少量であるが、須恵器杯・高杯・壺・甕などの破片が見つかり、これから、築造年代は六世紀後半から七世紀初め頃と考えられる。
玄室の長さ3.1m 幅1.6m 高さ2m 羨道の長さ4.75m 幅1.6m 高さ2m
原間1号墳は昔、原間古墳と呼ばれていましたが、近くで新たな古墳が発見され、1号墳と呼ばれるようになりました。また、平成10・11年の四国横断自動車道建設の事前調査でさらに8基の古墳が発見され現在原間10号墳まで発見されています。
尚、原間(わらま)1号墳は私有地の中に在り、古墳までの道もありません。なので公式には一般公開は行われてはいません。見学する時には、田圃で働いている方などに声を掛けてから行かれると良いです。
今回は、偶然ですが犬の散歩の男性が田圃の中を横切って案内していただきました。(たぶん持ち主だと思います。)
綾部山28号墳は正玄塚古墳とも呼ばれ、香川県大川町の原間古墳との構造的類似性が指摘されており、その原間古墳の石室は播磨国揖保郡南西部の石室構築技術を受容する形で成立したと推測されています。
今回は、偶然ですが犬の散歩の男性が田圃の中を横切って案内していただきました。(たぶん持ち主だと思います。)
綾部山28号墳は正玄塚古墳とも呼ばれ、香川県大川町の原間古墳との構造的類似性が指摘されており、その原間古墳の石室は播磨国揖保郡南西部の石室構築技術を受容する形で成立したと推測されています。
四国横断自動車道建設に伴う発掘調査によって多くの古墳、遺跡が判明しています。まず、弥生時代の集落は原間インター付近で発見されています。そして、弥生時代のお墓は、原間遺跡から西に塔の山遺跡・塔の山南遺跡があり、原間遺跡の東に樋端遺跡があります。樋端墳丘墓では長さ2.5㍍の竪穴式石室が見つかり、弥生時代の権力者のお墓と推測されます。
古墳時代前期は原間遺跡の北東で大日山古墳が造られますが、大日山古墳よりも少し古い段階の集落が原間遺跡で見つかっています。
古墳時代中期、富田茶臼山古墳が造られた後の時代には原間に古墳が造られます。原間3~10号墳です。原間6号墳は埋葬施設に木槨をもち、中から三累環頭大刀(さんるいかんとうたち)が出土し、朝鮮半島との関わりが推測されます。古墳時代中期の集落は原間3~10号墳のある尾根にはさまれた谷で見つかっています。古墳に葬られている人物の集落であった可能性があり注目されます。
古墳時代後期に入ると原間には古墳、集落ともに見られなくなります。再び古墳が造られるのは古墳時代後期の後半です。6世紀末から7世紀前半にかけて集落、古墳が見られます。古墳は原間1号墳、原間2号墳です。
集落は原間遺跡で奈良時代の前半まで見られますが、後半になるとなくなります。原間遺跡で集落が見られなくなる頃に出現するのが南海道沿いにある坪井遺跡です。このような現象について、古代の幹線道路が樋端-原間ルートから南海道の方に移ったという意見があります。
原間地区の歴史は近年の発掘調査によって少しずつ明らかになってきています。弥生時代のお墓がたくさん見つかったこと、朝鮮半島との関係が想像される古墳が発見されたこと、古墳に眠る人物が住んでいたと思われる集落が見つかったこと、などです。また、古墳時代後期前半は今のところ遺跡は見つかっておらず、また、奈良時代後半以降は遺跡が消えてしまいます。近くに発見されていない遺跡があるのか、人の動きに変化があるのか、興味深い問題です。
しかし、こうした原間の遺跡もほとんどが四国横断自動車道や土採り事業によって消滅しており、今唯一残されているのが原間1号墳です。原間地区の歴史を語る遺品として大切にしていきたいものです。
文は、香川県立図書館蔵白鳥町史(現東かがわ市)&さぬき市文化財保護協会HPなどから転載しました。
写真は2012年3月19日撮影
場所はワイワイマップ『古墳・経塚のMAP』にスポット投稿します。
古墳時代前期は原間遺跡の北東で大日山古墳が造られますが、大日山古墳よりも少し古い段階の集落が原間遺跡で見つかっています。
古墳時代中期、富田茶臼山古墳が造られた後の時代には原間に古墳が造られます。原間3~10号墳です。原間6号墳は埋葬施設に木槨をもち、中から三累環頭大刀(さんるいかんとうたち)が出土し、朝鮮半島との関わりが推測されます。古墳時代中期の集落は原間3~10号墳のある尾根にはさまれた谷で見つかっています。古墳に葬られている人物の集落であった可能性があり注目されます。
古墳時代後期に入ると原間には古墳、集落ともに見られなくなります。再び古墳が造られるのは古墳時代後期の後半です。6世紀末から7世紀前半にかけて集落、古墳が見られます。古墳は原間1号墳、原間2号墳です。
集落は原間遺跡で奈良時代の前半まで見られますが、後半になるとなくなります。原間遺跡で集落が見られなくなる頃に出現するのが南海道沿いにある坪井遺跡です。このような現象について、古代の幹線道路が樋端-原間ルートから南海道の方に移ったという意見があります。
原間地区の歴史は近年の発掘調査によって少しずつ明らかになってきています。弥生時代のお墓がたくさん見つかったこと、朝鮮半島との関係が想像される古墳が発見されたこと、古墳に眠る人物が住んでいたと思われる集落が見つかったこと、などです。また、古墳時代後期前半は今のところ遺跡は見つかっておらず、また、奈良時代後半以降は遺跡が消えてしまいます。近くに発見されていない遺跡があるのか、人の動きに変化があるのか、興味深い問題です。
しかし、こうした原間の遺跡もほとんどが四国横断自動車道や土採り事業によって消滅しており、今唯一残されているのが原間1号墳です。原間地区の歴史を語る遺品として大切にしていきたいものです。
文は、香川県立図書館蔵白鳥町史(現東かがわ市)&さぬき市文化財保護協会HPなどから転載しました。
写真は2012年3月19日撮影
場所はワイワイマップ『古墳・経塚のMAP』にスポット投稿します。
陶芸教室の方へ
電柱の所から畦の上を山の方へ左に回り込む
入り口はせまいですが中は立っておれます。
鏡石(一枚岩)
羨道方面
天井
床
古墳内部図
電柱の所から畦の上を山の方へ左に回り込む
入り口はせまいですが中は立っておれます。
鏡石(一枚岩)
羨道方面
天井
床
古墳内部図