四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 香川県丸亀市

【地獄谷(じごくだに)古墳】
 地獄谷(じごくだに)古墳 古墳時代後期 香川県丸亀市飯山町に残っています。
 六世紀後半の豪族の跡で、古墳は直径10mの円墳の横穴式石室で、玄室の長さ2.4m、幅1.6mから2.1m奥程広くバチ形、高さ1.8m、
 羨道は2m 高さ0.7m 天井石2枚の巨石で保存されている。
 文は現地説明板より
 アクセス:高松より府中・善通寺線を額坂を降り切ると右側に新しいブロック崖の所をV字型に登って行く。民家が一軒あり、その北側の田圃の片割にあります。
 内部を見るには懐中電灯が必要です。中に入るのは入り口が狭い。天井には何やら昆虫?が住んでいる。(私は内部には入っていません。カメラだけを中に入れて撮りました。)
 写真は2011年12月1日撮影
 場所はワイワイマップ(古墳・経塚map)にスポットにスポット投稿します。

 額坂西側に小さな表示板がある。
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 全景
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 玄室内(羨道部分が破損で隙間が出来ている。)
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ワイワイマップの見方
yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→「古墳」検索→《古墳・経塚のMAP》を スクロールで選定する。

【寳珠山・三谷寺】
 寳珠山(ほうじゅざん)・三谷寺(みたにじ)の宗派は真言宗御室派で香川県丸亀市飯山町東坂元 3183にあります。讃岐三十三観音霊場二十六番札所
 当寺は天平二年(730)、聖武天皇の勅願により、行基菩薩の創建せられた霊場である。
 本尊十一面観世音菩薩は、行基菩薩の御作にして、其の御頭の中には、光明皇后の守本尊十一面観世音菩薩が納められている霊佛である。天皇は当寺を勅願所とし、八葉山施無畏寺と名付けられた。後に空海が当寺に御巡錫のみぎり荒廃せる当寺を再建弥勒浄土に擬して四十九坊を建立、奥の院の厳窟中に薬師如来の石像を安置し院号を弥勒院(みろくいん)と名付けられた。鎌倉時代、四條天皇の御母藻壁門院(へきもんいん)、当寺に帰依せられ二位尼「藤原政子」をして興隆なさめ、田畑四十九町を寄進せられ寺号を浄興院長谷寺(諸国長谷寺の一つ)改稱す。後宇多法皇は深く叡慮を当寺の興隆に注がれ、田園三十六町を賜い影向山無量寿院三谷寺と改稱し給うた。
 天正年間長宗我部の兵火に遭い、諸堂悉く烏有に帰したが、天正十五年(1587)、生駒一正、当寺に帰依し、寺領六十石、山林三町四方を寄進し、高松藩祖「松平源英公」は、当寺に特別の庇護を加えられ再建されたが、寛政年間、再び火災に遭い焼失した。当時の住職「法純和尚」之を再建以来今日に至っている。
 境内は幽寂にして浮世の俗塵を離れたる霊地にして、一歩境内にに入れば心身とも洗われる思いにひたることが出来る。
 また本堂前の西国霊場一番札所の石佛を初として奥の院に至る間に三十三ケ所の石佛あり約一時間にて巡拝することが出来る。(後日記事にします。)
 文は境内の説明板より転載しました。
 0877-98-2292
 写真は2011年12月1日撮影

 仁王門
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 中門
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 本堂
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 大師堂
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 鐘楼
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 多宝塔
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 空海像
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 境内風景
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ワイワイマップの見方
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【郡家アイリス園《ジャーマンアイリス》】
 香川県丸亀市郡家町の郡家アイリス園で、アイリス(西洋アヤメ)が咲き始めた。色鮮やかな大ぶりの花が初夏の風に揺れ、園芸愛好家らの目を楽しませている。
 同市柞原町の愛好家重成博さんが十数年前から約40アールの休耕田で栽培し、一般開放(無料)している。年々増え続け、今年は600種約6万株になった。ジャーマン種・ルイジアナ種他カラフルな花が咲いています。(山陽新聞NEWSより参照しました。) 
 駐車場は有りません。(路駐)、休日は300m程離れた所の114銀行駐車場が開放されていいるようです。
 写真は2011年5月17日撮影 

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【郡家アイリス園《ルイジアナアイリス》】
 香川県丸亀市郡家町の郡家アイリス園で、アイリス(西洋アヤメ)が咲き始めた。色鮮やかな大ぶりの花が初夏の風に揺れ、園芸愛好家らの目を楽しませている。
 同市柞原町の愛好家重成博さんが十数年前から約40アールの休耕田で栽培し、一般開放(無料)している。年々増え続け、今年は600種約6万株になった。ジャーマン種・ルイジアナ種他カラフルな花が咲いています。(山陽新聞NEWSより参照しました。) 
 駐車場は有りません。(路駐)、休日は300m程離れた所の114銀行駐車場が開放されていいるようです。
 写真は2011年5月17日撮影 
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

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ワイワイマップの見方
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【西長尾城跡(国吉城跡)】
 西長尾城跡(国吉城跡)は香川県丸亀市綾歌町とまんのう町の境にある城山の山頂付近で丸亀平野を見下ろせる所に築いていました。平成16年9月27日に丸亀市指定文化財に指定されています。
 西長尾城は、丸亀平野南端、讃岐山脈の最前線ともいえる三山(大高見峰、猫山、城山)の西端に位置する城山山頂(標高375.2m)付近に築かれている。初代城主は、細川頼之に協力して白峰合戦で活躍した長尾大隅守元高が応安元年(1368)にその座に就く。以後、代々の長尾大隅守によって200年近く守られてきた。長尾一族は、この間に鵜足郡南部や那珂郡で勢力を増して岡田、栗隈、炭所に支城を構える。丸亀平野南部を支配することにより、西長尾城は中讃(香川県の中央付近)の処点としての地位を確立する。
 戦国時代が終わる頃、土佐の長宗我部元親が讃岐への侵攻を始める。これに羽床(はゆか)氏(羽床城主)が奮戦するが、長宗我部氏との和平に同意した香川氏(天霧城主)が土佐方につき、仲介に入ったことから降伏した。
 これによって長尾大隅守も長宗我部氏と和議を結ぶ。すぐさま長宗我部氏の重臣だった国吉甚左衛門が入城したので長尾氏はこれに城主の座を譲る。此の事から西長尾城は国吉城とも称される。
 天正13年(1585)豊臣秀吉の全国統一に伴う四国征伐に屈し、長宗我部勢は土佐に退却する。これにより西長尾城(国吉城)の歴史は幕を下ろす。
 文は丸亀市教育委員会の現地説明板より抜粋しました。(図も同じ)
 写真は2011年2月2日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

 此処から登る
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 第2東屋からの展望
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 この地道より登る
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 現在地地点が上記写真の場所
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 この山の頂上が本丸跡(城山)
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 連郭式郭列跡
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 土塁を登る
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 城山三角点
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 本郭跡(三角の山が猫山)
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 三角の山が猫山 奥が大高見峰(山頂から)
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 飯野山(讃岐富士)奥が青ノ山(山頂から)
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ワイワイマップの見方
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