四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 香川県丸亀市

名 称:飯神社のスギ
樹木名:杉
指 定:平成11年(1999)
指定区分:丸亀市保存樹木(市都市景観条例)
樹 齢:?
樹 高:19m
胸高径:4.67m
枝張り:東西?m南北?m
場 所:飯神社
解 説:データー=2011年6月24日調査
住 所:丸亀市飯野町東二
マピオンマップ↓↓↓↓
資 料:香川の環境香川の古木・巨樹頁、現地説明板など、
撮影日:2018年7月25日

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PCブラウザゲーム『刀剣乱舞ーONLINE-』とのコラボレーション
『刀剣乱舞ーONLINE-』に登場する「ニッカリ青江」を展示しています。

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寺 名:慧日山・正宗寺
本 尊:阿弥陀如来
開山開基:正慧坊智空聖人
宗 派:浄土真宗本願寺派
住 所:丸亀市前塩屋町
電 話:0877-22-3402
由 緒:HP参照ください。
解 説
 法然ゆかりの地『櫂掘の井戸』
 鎌倉時代の初め、法然上人は、難しい教義は知らなくても「南無阿弥陀仏」を唱える者は仏の救いが得られるという浄土宗を唱えた。教えが平易であったためか庶民の間に浸透し、たちまち全国に広まった。このため他宗派からねたまれた法然上人は、さらに門人の罪をも蒙り、建永二年(1207)の春、土佐へ流されることになった。
 かねてから法然上人帰依していた関白九條兼実は、七十五歳の上人の身を案じ、自分が管理している塩飽本島へひとまず行ってもらった。塩飽の地頭駿河権守高階保遠の館で過ごした上人は、小松荘(現香川県仲多度郡まんのう町羽間)へ行くためこの地に上陸した。七百七十五年位前の三月も終わりに近かった。
 舟から下りた上人は喉が渇いたので水を飲もうとしたが水がなかった。やまなく上人は舟の櫂で海浜をあちこちと掘った。たまたま1メートルたらず掘ったところに真水が湧き出たので、有り難やと四方を伏し拝み弟子とともに喉を潤した。これを見た里人たちは普通の人ではなかろうと、早速名主の屋敷に上人を招き入れた。その後上人の教えを受けるとともに草庵を建てて逗留を願った。その後、上人は小松荘でしばらく滞在した後、宇多津を経てその年の十二月京都に帰った。
 真水の湧き出た所は櫂堀の井と今に伝えられ、里人の建てた草庵が光明庵の始まりであるという。
 現在、この井戸にはコンクリートの井側が二本あり、その下にある石の所に水面が見える。水面は境内の南を流れる西汐入川の水面とほぼ同じ高さのようである。
 上人はここで次の二首を作ったと伝えられている。
 南無は船阿弥陀の櫂で掘る清水
     末の世までも 仏々と湧く
 有り難く思わば念仏称ふべし
     何ともなくば なほ称ふべし
 井戸の傍らに右の歌を刻んだ石柱と、上人が舟をつないだという「舟つなぎ石」もある。後世の人が上人を偲んで建てたものであるが、供花の絶えることがない。

 即身成仏至道法印
 榎井村(現琴平町)出身(白方=現多度津町ともいう)禅宗の学僧、至道法印が砂中に入り経文を唱えながら往生した(即身成仏)ところでる。
 時は、文化八年(1811)三月五日、至道法印六十九歳であった。近くの老人の口伝えには、十数日にわたり土中から念仏の声がかすかに聞こえていたという。
 中世、山形県の出羽三山において即身成仏をしたところがあったという。讃岐のような温暖な所で、しかも海辺に近い湿潤の地では極めてまれなことである。仏典の奥義を窮め自ら成仏する道を求めた至道法印は、法然上人上陸のこの地こそ仏道修行者の成仏すべき所であり、また霊地であるがため後世発掘されることもなく魂の安住できる場所と考え、海浜に近いこの地をあえて選んだのであろう。
 石仏の背面には「高祖大師即身成仏、依真影如此造者也」とある。真影に依り、とあるので至道法印の石像と思われる。(高祖大師とあるので他の僧かもと考えられるが)
 光明庵の中興といわれた宥授和尚は、至道法印入定の年に財田村(現三豊市財田町)の伊舎那院から光明庵に招かれた僧である。宥授和尚は即身成仏した至道法印の霊を慰めるため石造仏を造りお堂に安置した。数年後、火災によりお堂は焼失したが、石像仏は現在も残り、信者の参拝が絶えることがない。 
文化財:
資 料:県立図書館蔵 直井 武久著「丸亀の歴史散歩」
撮影日:2015年9月2日
近隣施設:中津万像園、丸亀城、

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神社名:田潮八幡神社
主祭神:應神天皇(誉田別命)
創 祀:
住 所:香川県
電 話:
由 緒
 古くより鵜足郡津郷の土産神として應神天皇を祀り、青野山西麓に鎮座 土器八幡宮と崇められてきた。南北時代貞治元年(1362)七月 細川頼之(北朝方)が将軍足利義詮の命により、細川清氏(南朝方)を松山郷(坂出市松山)高屋の城に攻め入ったとき、出陣に際し、当八幡に戦勝を祈願した。清氏の西長尾(現まんのう町長炭) 中院源小将雅平に対しては、陽動作戦を似て戦い、清氏を高屋の西林田の地に討ち取ったことは「六平記」に記述してある。(細川将軍戦跡の碑がある。)「全讃史」には、はじめ源少将が攻めて来たとき、頼之は、しばらく当社付近へ退却したが、社前の水田地帯一面に潮が満ち、敵軍を防いだので、田潮八幡宮と称したと伝えている。また「讃岐国名勝図会」によれば頼之は宇多津の館に凱旋ののち、社領三十石を寄進し、祝勝の松を手植えしたが、掛け引きの松、陰陽和合の松と呼ばれて世に親しまれたという。境内には今に頼之松の石碑があり、往時のを偲ばせる。 
解 説
 石鳥居の貫石に「于時元禄十三庚辰年(1700)正月吉祥日 奉寄進鳥居施主田村伝右衛門易全」と書いている。生駒時代の末に土器に移り、子孫相次いでこの地を開拓した「田村易全」の寄進したもので、丸亀では最も古い鳥居の一つである。 
資料等:現地石碑、県立図書館蔵 直井 武久著「丸亀の歴史散歩」、
撮影日:2015年9月2日

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随神門格子天井画
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古い狛犬
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拝殿内絵馬 多数ある 見学自由
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本殿
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【三谷寺奥の院・岩屋薬師】
 三谷寺奥の院・岩屋薬師 本尊:薬師如来 香川県丸亀市飯山町
 空海が諸国巡歴の途中三谷寺にとどまって諸堂再建の折、奥の院を建立して岩窟内に薬師如来の石像を刻み、これを安置して弥勒院と名付けたことによると伝えられている。
 三谷寺の東1kmの幽寂な山中にあり、寺を一望することが出来ていた。戦後には此の地に行者がとどまり、加持祈祷を行い、多くの善男善女が参詣していた。今もその名残をとどめている。

 ミニ西国三十三観音霊場巡りがあり、信仰とハイキングの讃岐富士も望める風光明媚なコースになっていて訪れる人も多くいる。

 三谷寺の記事↓↓↓↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/35916697.html
 
 文は香川県立図書館蔵飯山町誌より転載しました。
 写真は2011年12月1日撮影
 場所はワイワイマップ(空海ゆかりの地と四国八十八ヶ所+別格二十霊場のMAP)にスポット投稿します。
 霊場マップ
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 第1番舟形石仏(三谷寺本堂左脇にある)
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 第33番舟形石仏(三谷寺本堂右脇にある)
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