四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 愛媛県大洲市

神社名:少彦名神社(すくなひこな神社)
主祭神:少彦名命(すくなひこなのみこと)
創 祀:
住 所:愛媛県大洲市菅田町大竹甲2583番地
由 緒:大國主命と共に國を作り堅めるため、伊豫の國入り道後温泉造営後南下し、菅田村西経塚の柊神社・天神社(当神社鎮座地)にて、永き年月蒼生の疾病を治療するため薬をうみだし、また祭事を斎行する。
 ある日、命は三町程下った急流を渡って対岸に至らんとしたが、のみこまれ常世國にいってしまう。土民達が亡骸を壺に入れ埋葬したと伝えられている。
 天保十四年(1844)京都の小笠原通當によると「命は神去り給いて、菅田村天神社にて祭りそのところは御屋敷跡なり、川向こうの梁瀬山に御陵所有り今不入場なり」とあり、全国的にいろいろな説がありますが、いずれにしても当神社が「命」の亡骸の御霊を斎祭していると言えます。
解 説:米国の非営利団体「ワールド・モニュメント財団」(WMF、本部ニューヨーク)が8日発表した危機遺産リスト2014年版に選ばれた愛媛県大洲市菅田町大竹の少彦名(すくなひこな)神社参籠殿(さんろうでん)。資金難の中で地道な修復に取り組んできた市民らは9日、修復進展を期待する喜びの声を上げた。
 専門家から希少性が指摘される半面、雨漏りや屋根の一部が落ちるなど傷みが進んでいた。市民有志で昨年発足し、最低限の修復に必要な2000万円を目標に寄付を募っている修復実行委員会の清水英範委員長(64)は「地元の文化なのに寄付は集まりにくかった。これで弾みがつく」と笑顔を見せた。
愛媛新聞より
文化財等:
その他指定:集会場(参籠殿)危機遺産リスト2014年版入り
近隣施設:臥龍山荘、おはなはん通り、
資 料:「少彦名神社」と「おすくな社中」物語 WEB
撮影日:2014年1月17日
場 所:スポットノート『神社祠map』に投稿します。
少彦名神社(すくなひこな神社) 懸造り=参籠殿
http://www.geocities.jp/osukuna/
 
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梁瀬橋
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集会場(参籠殿)危機遺産
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拝殿
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本殿
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中殿への鳥居
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崩壊している中殿
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ここよりさらに登っていくと御陵がある。倒木等で断念する。
 
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神社名:天神社
主祭神:菅原道真
創 祀:伝安永二年(1773)
住 所:大洲市河辺町北平4724
由 緒:
解 説:
文化財等:
その他指定:天神社のアオネカズラ(蒼根蔓) 愛媛県大洲市指定天然記念物(昭和56年3月10日指定)
近隣施設:龍馬脱藩の道、浪漫八橋、河辺ふる里公園、御幸の橋(みゆきのはし)
資料等:愛媛県神社庁HP&現地説明板などより参照しました。
撮影日:2013年12月10日
場 所:スポットノート『神社祠map』に投稿します。
 
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御幸の橋(みゆきのはし)
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アオネカズラ(蒼根蔓)
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 飛翔の像
 新しい時代の予感が28歳の龍馬の心をとらえた。脱藩という大罪を犯して、大望のため土佐を捨て、河辺村榎ヶ峠(現愛媛県大洲市河辺町)に至ったのは、文久二年三月二十六日。近代日本の誕生に命を賭けた龍馬の旅は、ここ河辺村から始まった。この坂本竜馬脱藩の道は、平成八年十一月一日に文化庁の「歴史の道百選」に選定された。
 私たち河辺村民は、この道を文化遺産として大切に保存することを誓い、ここに龍馬、惣之丞、俊平の顕彰碑「飛翔の像」を建立する。
平成十年三月吉日 河辺村村長 大野 富士男
 沢村惣之丞 (1843~1868)左
 土佐郡潮江村(潮江村・現高知県高知市)の地下浪人の家に生れる。
 文久二年(1862)龍馬に先立ち土佐を脱藩した。三月十六日に下関の白石正一郎宅で吉村虎太郎、久坂玄瑞らと画策後、危険を冒して土佐に帰り、三月二十四日、龍馬を伴って再度脱藩した。名を関雄之助と改め、土佐海援隊では龍馬の片腕となって活躍したが、長崎で薩摩藩士を誤殺、その責を負うて自刃した。二十六歳
 龍馬脱藩の道は、惣之丞の口述を記録した文書に基づいている。
 坂本龍馬 (1835~1867)中央
 高知城下の郷士の家に生まれる。
 文久二年(1862)三月二十四日同志の沢村惣之丞とともに土佐を脱藩した。翌日檮原村の那須俊平、信吾父子の家に宿泊し、三月二十六日俊平の道案内で予・土国境を越え、榎ヶ峠から河辺村に入る。泉ヶ峠で一泊したあと、宿間村(現愛媛県内子町五十崎)で俊平と分かれ、長浜から下関に向かった。
 その後、新しい日本をつくるために奔走したが、京都近江屋で中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、維新を見ることなく闘死した。三十三歳
 那須俊平 (1807~1864)右
 高岡郡檮原村(現高知県高岡郡檮原町)の郷士。
 文久二年(1862)三月二十五日、土佐を脱藩した坂本龍馬と沢村惣之丞が那須家に宿泊した。翌日、那須俊平・信吾父子が道案内をして檮原を立ち、予・土国境で信吾は引き返したが、俊平は伊予路に入り、河辺村を通って宿間村(現愛媛県内子町五十崎)まで龍馬らを案内した。
 その後、自らも脱藩して京都に上り、長州の忠勇隊に入って活躍したが、禁門の変で討たれた。五十八歳
 以上の文は顕彰碑の陶板より転載しました。
 写真は2013年7月3日撮影
 場所はスポットノート『銅像や石の建造物map』に投稿します。
 近隣施設:浪漫八橋・龍馬脱藩の道・河部ふるさと村・交流館才谷屋・三杯谷の滝
 
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ダム名:鹿野川(かのがわ)ダム
ダム湖名:鹿野川湖(かのがわこ)
河川名:肱川(ひじかわ)
左岸所在地:愛媛県大洲市肱川町山鳥坂地先
堰堤長:167,9m
堰堤高:61m
湛水面積:232ha
目 的:FN(洪水調節、利水)
形 式:重力式コンクリート
ダム事業者:国土交通省四国地方整備局
発 電:愛媛県公営企業管理局 一般水力 最大=10400kw 常時=2200kw
着手/竣工:1953/1958年竣工
四国堰堤ダム88箇所第47番堰堤札所
ダムカード:VOL1.1
解説等:既設鹿野川ダムの洪水調節容量を1.4倍とすることを目的にダム右岸地山にトンネル洪水吐を新設する工事。大断面(標準部仕上り内径11.5m・最大掘削断面積:320m2))のウオータータイトトンネルを建設するものである。 ~
2016年3月31日
周辺施設:交流センター「鹿野川荘」・風の博物館・ダム湖畔は桜の名所・オシドリの飛来地・丸山公園(シャクナゲは西日本一)
資 料:ダム便覧などから参照しました。
場 所:スポットノート『堰堤・ダム・池map 』にスポット投稿します。
撮影日:2013年7月3日
 
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堰堤
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上流域
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下流域
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発電所
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管理棟(ダムカード配布)
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【十夜ヶ橋 永徳寺】
 十夜ヶ橋(とよがはし) 永徳寺(えいとくじ)は、四国別格二十霊場八番札所、愛媛県大洲市東大洲の国道56号沿いにあるお寺です。宗派は真言宗御室派 開基は不詳 本尊は弥勒菩薩

 今から千二百余年年前 空海が四国巡錫(じゅんせき)中、この辺りにさしかかった時、日が暮れてしまい寝るところもなく、空腹のまま小川に架けられた土橋の下で野宿をされました。わずか一夜のことではありましたが、夜明けまでは、それこそ十夜の長さにも感じられる思いで過ごされ、『行きなやむ 浮世の人を渡さば一夜も十夜の橋と思ほゆ』と詠まれました。
 これから、十夜ヶ橋と名が付いたといわれ、また、お遍路さんが橋の通る時、杖をつかないという風習もこの話から起こったとつたえられています。
 現在、この橋は肱川の支流に架かる国道56号の橋となっている。(昭和41年3月竣工)
 以上の文は、現地説明板とウィキペディアなどから転用しました。
 写真は2011年10月3日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

 本堂
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 大師堂
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 修行空海像
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 現在の橋(十夜が橋)
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ワイワイマップの見方
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