カテゴリ: 徳島県鳴門市
撫養城
【撫養城(岡崎城、林崎城)】 |
天正十三年(1585)蜂須賀家政が阿波に入国し阿波国内九ヶ所に城塞を設けた。撫養城は淡路渡海の押さえとして異母弟の「益田内膳正忠」を城番にし手勢三百名をもって守らせた。
寛永十五年(1638)一国一城の令により阿波九城は破却された。
《三好氏の臣「小笠原撫養氏」より撫養城と呼ばれている》
現在ある天守は、徳島県立鳥居記念博物館(現在は徳島市へ移転)として昭和40年(1965)鉄筋コンクリート造で天守閣風に3層4階建てを建築した。(現在立ち入り禁止) 撫養城には天守はありませんでした。
現在は、妙見山公園として整備されている。公園内には、19世紀のフランスのガラス工芸家、エミール・ガレの作品を鳴門ガレの森美術館がある他、清少納言の墓と伝えられるあま塚がある。
現在は、妙見山公園として整備されている。公園内には、19世紀のフランスのガラス工芸家、エミール・ガレの作品を鳴門ガレの森美術館がある他、清少納言の墓と伝えられるあま塚がある。
城郭:平山城
築城主:益田内膳正忠
築城年:不明
主な改修者:不明
主な城主:小笠原氏、益田氏、蜂須賀氏
廃城:寛永15年(1638)
徳島県鳴門市指定史跡
築城主:益田内膳正忠
築城年:不明
主な改修者:不明
主な城主:小笠原氏、益田氏、蜂須賀氏
廃城:寛永15年(1638)
徳島県鳴門市指定史跡
文は現地説明板&Wikipediaなどより転載しました。
写真は2012年4月23日撮影
場所はワイワイマップ『城・城址のMAP』にスポット投稿します。
写真は2012年4月23日撮影
場所はワイワイマップ『城・城址のMAP』にスポット投稿します。
妙見山
妙見神社(みょうけん神社) 祭神 天御中主神
当神社は、「造化の神 天御中主神」を祀る。この神は古く大地の未だ成立しない頃大空の真中に生れ給い天地万物の大元をおすへになり、有形、無形のみたまとして永久に世に幸を与えられた。
そのおヽみいつによって次々に神々がお現れになりその尊い御神徳は計りしれない。故に、開運、延命、長寿、安産、海陸交通安全の守護神として広く信仰されている。
平安末期、中国より伝わった北辰(北極星)信仰と結びついて妙見社として祀られるようになった。
天保元年(1830)旧城主、四宮加賀守の子孫と撫養町林崎郷の近藤利兵衛氏がこの城跡に妙見神社として再建した。
ガレの森の美術館
妙見神社(みょうけん神社) 祭神 天御中主神
当神社は、「造化の神 天御中主神」を祀る。この神は古く大地の未だ成立しない頃大空の真中に生れ給い天地万物の大元をおすへになり、有形、無形のみたまとして永久に世に幸を与えられた。
そのおヽみいつによって次々に神々がお現れになりその尊い御神徳は計りしれない。故に、開運、延命、長寿、安産、海陸交通安全の守護神として広く信仰されている。
平安末期、中国より伝わった北辰(北極星)信仰と結びついて妙見社として祀られるようになった。
天保元年(1830)旧城主、四宮加賀守の子孫と撫養町林崎郷の近藤利兵衛氏がこの城跡に妙見神社として再建した。
ガレの森の美術館
観音寺の牡丹
【観音寺の牡丹】 |
牡丹の寺 庭園を中心に境内に150種308株の牡丹が植わっています。(鉢ものを売ってもいる)
清少納言の祈願寺(比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めを受けんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという。)
拝観無料 駐車場あり(無料)
☎088-686-3953
文は観音寺HP&Wikipediaなどより転載しました。
写真は2012年4月23日撮影
場所はワイワイマップ『綺麗な花が咲く所のMAP』にスポット投稿します。
大麻比古神社
【大麻比古神社】 |
大麻比古神社は徳島県鳴門市大麻町にある阿波の国一宮で阿波・淡路の産神様です。
境内には、幹周8.3m、樹高22m、樹齢は千年以上と言われる大きな楠が有る。(鳴門市指定天然記念物)
☆ドイツ橋
ドイツの租借地であった青島において捕虜となったドイツ兵の一部は、大麻比古神社の約2km南にあった板東俘虜収容所に収監されていた。当時、大麻比古神社境内はドイツ人捕虜達の散策に利用されていたが、板東俘虜収容所における捕虜への対応が人道的かつ寛大で友好的であり、また地域住民との交流も積極的に行われたことから、彼らが帰国する際に記念として築造を提案した。大正8年(1919年)4月初旬に着工し、同年6月末に完成した。橋の材料は和泉砂岩で、アーチの形式はローマ式の半円形で馬蹄形の石築アーチ橋となっている。内面で180個、全体で3000個の石が使用されており、その重さは195トンになる。
平成16年(2004年)1月30日に徳島県の文化財史跡に指定された。現在は保存のため、橋の上の通行はできなくなっている。
ドイツの租借地であった青島において捕虜となったドイツ兵の一部は、大麻比古神社の約2km南にあった板東俘虜収容所に収監されていた。当時、大麻比古神社境内はドイツ人捕虜達の散策に利用されていたが、板東俘虜収容所における捕虜への対応が人道的かつ寛大で友好的であり、また地域住民との交流も積極的に行われたことから、彼らが帰国する際に記念として築造を提案した。大正8年(1919年)4月初旬に着工し、同年6月末に完成した。橋の材料は和泉砂岩で、アーチの形式はローマ式の半円形で馬蹄形の石築アーチ橋となっている。内面で180個、全体で3000個の石が使用されており、その重さは195トンになる。
平成16年(2004年)1月30日に徳島県の文化財史跡に指定された。現在は保存のため、橋の上の通行はできなくなっている。
☆めがね橋と心願の鏡池
第1次世界大戦のさなか中国青島の戦いで捕虜になったドイツ兵士約千人が大正6年から9年にかけて、異郷の地坂東俘虜収容所に過ごした。
ドイツ兵士達が、遠い祖国を偲びながら一日も早く故国に帰れる事を願いつつ、当神域を散策した記念のため境内に池を掘ってメガネ橋を配し、小谷にドイツ橋を架けた。・・・・神池を拡張し、メガネ橋周辺を整備して「心願の鏡池」と命名した。現地説明案内板より転載しました。
写真は、2010年7月20日撮影
地図は、ワイワイマップにスポット投稿します。
第1次世界大戦のさなか中国青島の戦いで捕虜になったドイツ兵士約千人が大正6年から9年にかけて、異郷の地坂東俘虜収容所に過ごした。
ドイツ兵士達が、遠い祖国を偲びながら一日も早く故国に帰れる事を願いつつ、当神域を散策した記念のため境内に池を掘ってメガネ橋を配し、小谷にドイツ橋を架けた。・・・・神池を拡張し、メガネ橋周辺を整備して「心願の鏡池」と命名した。現地説明案内板より転載しました。
写真は、2010年7月20日撮影
地図は、ワイワイマップにスポット投稿します。
赤大鳥居
祓川橋
拝殿
本殿
めがね橋と心願の鏡池
ドイツ橋
境内の大クスの木
大石灯籠
ワイワイマップの見方
yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→徳島で検索→《徳島・阿波》を スクロールで選定する。
祓川橋
拝殿
本殿
めがね橋と心願の鏡池
ドイツ橋
境内の大クスの木
大石灯籠
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道の駅「第九の里」
【道の駅「第九の里」】 |
☆道の駅「第九の里」
物産館は、第1次世界大戦時。現在の大麻町桧にあった坂東俘虜収容所で兵舎として使われていあた建物が近くの農家に移築され、最近まで牛舎に使用されており、平成16年に登録有形文化財に指定されていたものを再度この場所に移築し物産館としながら文化財の保護に努めています。現地建物の板塀に架かっていた施設説明板より転載しました。(登録有形文化財 第38-8049号)
物産館は、第1次世界大戦時。現在の大麻町桧にあった坂東俘虜収容所で兵舎として使われていあた建物が近くの農家に移築され、最近まで牛舎に使用されており、平成16年に登録有形文化財に指定されていたものを再度この場所に移築し物産館としながら文化財の保護に努めています。現地建物の板塀に架かっていた施設説明板より転載しました。(登録有形文化財 第38-8049号)
☆ドイツ館(一部有料)
第1次世界大戦始まると、日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃しました。
敗れたドイツ兵約5,000人が俘虜となり日本各地の収容所へ送られましたが、その内、四国の徳島・丸亀・松山にいた約1,000人が大正6年(1917年)から1920年までの約3年間を坂東俘虜収容所で過ごしまし
た。
地域の人々は俘虜達の進んだ技術や文化を取り入れようと牧畜・製菓・西洋野菜栽培・建築・音楽・スポーツなどの指導を受けました。
第1次世界大戦始まると、日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃しました。
敗れたドイツ兵約5,000人が俘虜となり日本各地の収容所へ送られましたが、その内、四国の徳島・丸亀・松山にいた約1,000人が大正6年(1917年)から1920年までの約3年間を坂東俘虜収容所で過ごしまし
た。
地域の人々は俘虜達の進んだ技術や文化を取り入れようと牧畜・製菓・西洋野菜栽培・建築・音楽・スポーツなどの指導を受けました。
☆賀川豊彦記念館(有料)
『愛は、私の一切である』家庭の不幸、病苦、破産など多くの苦難を乗り越えて神戸のスラム救済活動から再生した賀川豊彦。
大正デモクラシーの先頭に立ち、様々な社会運動を指導して社会悪と戦い、弱者と共に歩んだ人。戦争に反対し、生涯を通じ世界平和のために身を捧げた人。
混迷する21世紀を切り開く思想と行動の指針を賀川に求めようとする全国の人々の願望が、この記念館をつくりました。パンフレットより。
友愛・互助・世界平和を求め続けた賀川豊彦の生涯を記録したミュージアムである。
『愛は、私の一切である』家庭の不幸、病苦、破産など多くの苦難を乗り越えて神戸のスラム救済活動から再生した賀川豊彦。
大正デモクラシーの先頭に立ち、様々な社会運動を指導して社会悪と戦い、弱者と共に歩んだ人。戦争に反対し、生涯を通じ世界平和のために身を捧げた人。
混迷する21世紀を切り開く思想と行動の指針を賀川に求めようとする全国の人々の願望が、この記念館をつくりました。パンフレットより。
友愛・互助・世界平和を求め続けた賀川豊彦の生涯を記録したミュージアムである。
道の駅「第九の里」のホームページ↓↓↓↓
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/michino_eki/index.html
写真は、2010年7月20日撮影
地図は、ワイワイマップにスポット登録します。
物産館
ドイツ館
ベートーヴェン像
賀川豊彦記念館
近く風景
ワイワイマップの見方
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http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/michino_eki/index.html
写真は、2010年7月20日撮影
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物産館
ドイツ館
ベートーヴェン像
賀川豊彦記念館
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