四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 高知県高知市

神社名:薫的神社
主祭神:薫的大神(大和尚)
創 祀:
住 所:高知県高知市洞ケ島町
マピオンマップ↓↓↓↓↓
電 話:088-872-2651
由 緒
 薫的和尚は、長宗我部元親が両親の菩提寺として天正18年(1590)に建てた土佐一番の禅寺、瑞応寺の和尚でした。(明治になって廃寺になる。)
 御神徳 学問の神、芸術、武術にも優れ苦難の生涯を経たことから、勝運の神様として信仰されその御神徳は広大無辺である。
 御社号 明治三年に洞ヶ島(ほらがしま)神社と称し、昭和二十四年十一月、大神様の御名を冠して、薫的神社と改称した。一般には常に「薫的さん」の名で親炙されている。
伝 説:下記アドレス
H P
解説等:拝殿の巻龍は、大豊町の八坂神社の巻龍と似ている。同じDNAか?。
文化財等:
近隣施設:安楽寺高知城
撮影日:2016年12月20日

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土佐藩の獄舎
 薫的様が自ら舌を噛み切り、入寂したと言われる牢屋。現在のはりまや町3丁目、旧山田町の牢の町にあったものを移築。嘗ては、実際に政治犯を収容していた建物。
 高知城下旧山田町の東部南側に土佐藩の獄舎があった。旧山田町の獄舎では実際に、京都の青蓮院宮の令旨事件で、土佐勤皇党の平井収二郎(妹・かほは龍馬の初恋の人)、間崎哲馬、弘瀬健太が山内容堂の逆鱗にふれて、切腹させられた。
その他、多くの勤皇党員が入牢させられ、勤皇党首領、武市半平太の弟、田内衛吉の服毒自殺、島村衛吉の拷問死、他に斬首3名、禁錮7名、岡田以蔵は獄門刑(さらしくび)という厳しい処分を受けた。お牢はその獄舎の一部が保存されたものである。
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新川のおとし 
文化財:高知市指定史跡 昭和35年
所在地:高知県高知市春野町森山
場 所:マピオン地図↓↓↓
築造期:承応元年(1648)
解 説
 新川は、承応元年(1648)、野中兼山によって造られました。
 弘岡井筋(ひろおかゆすじ)は、農業面も灌漑用水路としてでなく水運路としても利用されました。
 八田堰が出来るまでは、奥仁淀の木材や薪炭は仁淀川を下り、新居の「甫淵」に運ばれ、そこから太平洋に出て浦戸湾から高知城下に運ばれていたようです。ところが、八田堰は筏越しを作らなかったため、下流への物資は全て弘岡井筋を通らなければなくなりました。弘岡井筋は割合高いところを通ったため、新川の入口に、新川川の流れと高低の差を調整するために「おとし」を造りました。いわばこの「おとし」が水運路のノドとなりました。このため上流からの大きな筏は壊されて「おとし」を降し、物資もそのまま下ることは出来ず、いったん「せんば」に陸揚げされ、新川の者の舟に積み替えられて、吾南の物資と共に高知城下に運ばれました。だから、「おとし」の付近は、上流からの木材や木炭、雑穀、また高知城下や吾南から奥地に運ばれる日用品や雑貨が山と積まれ、これを取り扱う商人や運送業者で大変な賑わいでした。また、上流からの積荷や筏は、下流への運搬は新川の者に譲らねばならなかったのに対し、新川の舟は上流まで自由に登ることができる。
 保護策もとられました。このため元禄の頃には60軒余であった人家も、幕末の頃には、200軒近くとなり、新川は在郷町として繁栄を極めました。「涼月」や「清水」という料亭や、「用石屋」「杉屋」「中島屋」「えびす屋」などの商人の屋号は、大師堂の前の石灯篭の台石に刻まれて、今でも繁栄の姿を見ることが出来ます。
資料等:現地説明板
撮影日:2016年12月20日
近隣施設:涼月橋、大師堂(春野10景)=ポケモン居るよ。

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公園広場=船泊
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石積み突堤の先
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突堤
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栄華の名残?
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山内 一豊像
作 家:本山 白雲
材 料:ブロンズ
制作年:この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとに平成8年(1996)に再建除幕された。
設置場所:高知城公園
住 所:高知県高知市丸の内1丁目
解 説:
 土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(現愛知県)岩倉城主織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1576)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下(きか)として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(現滋賀県)長浜2万国の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(現静岡県)掛川5万国を領した。
 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの功績により、土佐一国24万国を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
資 料:Wikipedia、現地説明板
撮影日:2010年12月8日

本山白雲(辰吉)
本山 白雲、
明治4年9月1日(1871年10月14日)~ 昭和27年(1952年2月18日)
 日本の銅像作家。高知市桂浜の坂本龍馬の銅像の作者。本名は本山辰吉、「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた。

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高知県立牧野植物園
高知県高知市五台山4200-6
088-882-2601

 高知県出身の植物学者・牧野富太郎博士の業績を顕彰するため、1958年に高知市五台山に開園しました。約6haの園内では、西南日本の植物や博士ゆかりの植物など、四季折々3000種が楽しめます。珍しい熱帯植物があるジャングルさながらの温室や、博士の業績や魅力を紹介した資料館・記念館展示も必見。園内を散築した後は、緑に囲まれたレストラン(※ カレーに付いてきたサラダが美味しかったです。勿論カレーもです。)&カフェや充実するショップもおすすめです。
【私見ですが、温室側からがお奨め。最後にカフェで休憩して帰る。】 
撮影日:2014年1月8日

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園内
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本館
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温室側入口
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牧野富太郎像
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四国山地
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板垣 退助像(老年期の像)
作 家:本山 白雲(辰吉)
材 料:ブロンズ
制作年:大正12年(1923)12月5日、高知城公園に建立。昭和18年(1943)9月2日金属供出せられ、のち再建)
設置場所:高知城登城口
住 所:高知県高知市丸の内 城内

~略 歴~
明治4年9月1日(1871年10月14日) 土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下で生まれる
明治23年(1890年7月)宿毛出身の岩村通俊の援助を得て、東京美術学校(現 東京芸術大学)彫刻本科に入学
明治27年(1894年)東京美術学校を卒業
昭和27年(1952年)2月18日没

~パブリックコレクション~
1928年 坂本龍馬像 桂浜(高知市)
1935年 中岡新太郎像 室戸岬(高知県室戸市)
1996年 山内一豊像(復元) 高知城公園(高知市)
資 料:Wikipedia&現地紹介板
撮影日:2010年12月8日

板垣退助(1837~919)
 近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保八年(1837)四月十七日高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊辰戦役の折に先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。
 維新後、新政府の参議に列したがやがて下野。明治七年(1874)一月、民選議員設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年四月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。
 明治十四年(1881)十月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、四月六日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか。「板垣死すとも自由は死せず」の名文句となり、怒涛の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。
 明治二十年(1887)五月、伯爵を授けられたが一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任じられること二回、晩年は政界を隠退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正八年(19191)七月十六日、八十三才で死去した。
 遺著に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。

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