四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 高知県高知市

種崎千松公園と種崎海水浴場
都市公園
面 積:約2ha
住 所:高知市仁井田種崎
マピオンマップ↓↓↓↓
マップコード↓↓↓↓
858 278 861*14
入園料:無料
休 日:無休
電 話:
運 営:高知県
開 園:
キャンプサイト有り
文化財等:日本の白砂青松100選
H P:
駐車場:無料
資料等:高知県サイトPDFなど、
撮影日:2019年1月14日
近隣観光地:桂浜若宮八幡

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神社名:若宮八幡神社
祭 神:誉田別命・息長帯比売命・宗像三女神
創 建:文治元年(185)12月30日
創 基:
社 格:県社
住 所:高知県高知市長浜6600
マピオンマップ↓↓↓↓↓
マップコード↓↓↓↓↓
858 245 887*86
電 話:
由 緒
 鎌倉幕府開府の基礎を固めた源頼朝公は、祖父、為義公の慰霊と源氏の長久を祈り、京都六条に左女牛若宮を創建し、土佐国吾川郡一円を同社の神領地として寄進した。その神領鎮護の神として、石清水八幡宮の御分霊を御勧請したのが当社である。(以上「吾妻鏡」より)
 鎌倉、室町の時代を通じ、特に武家崇拝の神社として栄え、ことに戦国時代の永禄三年(1560)五月、長宗我部元親公は初陣に臨み、当社の馬場先の松原(現鎮守の森公園)に陣を張り、一夜戦勝を祈願し、長浜城を攻め落とす。以来、当社を戦勝祈願の第一社と定め、社殿を出蜻蛉式建築と改める。これに対し、一宮(一区)の土佐神社を凱旋報賽社とし、入蜻蛉式に改めたことから、両社は対をなす土佐独特の神社建築となっている。
 慶長五年(1600)山内一豊公が新しく土佐の国守に封ぜられ、当初、浦戸城に、その後大高坂城に移住されてからも崇敬の念篤く、祈願八社の中の一社として、年々の祭典を厳修され幕末を迎えた。
 維新後、明治六年(1873)には郷社に、昭和五年には県社に列せられる。戦後は宗教法人として長浜・御畳瀬・浦戸・瀬戸・横浜・横浜新町の総鎮守として、更に厄除開運の神、安産の神、海上安全の神、戦勝祈願の神、雨の神として広い信仰を集め、今日に至っている。
 なお、昭和六十年(1985)十一月には、御鎮座八百年祭が盛大に斎行され、記念事業として社務所の改修や境内の整備が行われた。
札所等:
解 説:
H P:
文化財等:
駐車場:無料
撮影日:2019年1月14日
資料等:Wikipedia、現地説明板など、
近隣施設:桂浜

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鳥居のいわれ
 長宗我部元親公は、当社を出陣の祈願と定む、天正十四年秋、豊臣秀吉軍の先鋒隊として九州征伐に赴く際社頭に武運長久を祈りいざ出陣という折りも折り軍旗が鳥居の笠木にかかり墜落す。衆人はこれを不吉となし出陣を見合わす形勢となるも、公は殊更に「敵を笠にかけて討つの前兆である」と祝して出陣す。
 果せるかな豊後戸次川にて島津軍と戦うも惨敗し嫡子信親公以下、七百余人の将兵は異郷に討死にす。帰郷後、元親公はこの鳥居を不詳の鳥居とし海上遥かに流しやる。爾来二百八十余年間、鳥居のない社として有名なるも、慶応元年、地震の際、鳥居の根石の自然に浮き出しことから衆人これを神意となし、再建す。時に、明治三年三月のことなり、更にその後昭和十一年一月に建て替え、昭和五十五年十月には従来の木の鳥居から鉄筋コンクリートに変わり今に至る。

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神社名:薫的神社
主祭神:薫的大神(大和尚)
創 祀:
住 所:高知県高知市洞ケ島町
マピオンマップ↓↓↓↓↓
電 話:088-872-2651
由 緒
 薫的和尚は、長宗我部元親が両親の菩提寺として天正18年(1590)に建てた土佐一番の禅寺、瑞応寺の和尚でした。(明治になって廃寺になる。)
 御神徳 学問の神、芸術、武術にも優れ苦難の生涯を経たことから、勝運の神様として信仰されその御神徳は広大無辺である。
 御社号 明治三年に洞ヶ島(ほらがしま)神社と称し、昭和二十四年十一月、大神様の御名を冠して、薫的神社と改称した。一般には常に「薫的さん」の名で親炙されている。
伝 説:下記アドレス
H P
解説等:拝殿の巻龍は、大豊町の八坂神社の巻龍と似ている。同じDNAか?。
文化財等:
近隣施設:安楽寺高知城
撮影日:2016年12月20日

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土佐藩の獄舎
 薫的様が自ら舌を噛み切り、入寂したと言われる牢屋。現在のはりまや町3丁目、旧山田町の牢の町にあったものを移築。嘗ては、実際に政治犯を収容していた建物。
 高知城下旧山田町の東部南側に土佐藩の獄舎があった。旧山田町の獄舎では実際に、京都の青蓮院宮の令旨事件で、土佐勤皇党の平井収二郎(妹・かほは龍馬の初恋の人)、間崎哲馬、弘瀬健太が山内容堂の逆鱗にふれて、切腹させられた。
その他、多くの勤皇党員が入牢させられ、勤皇党首領、武市半平太の弟、田内衛吉の服毒自殺、島村衛吉の拷問死、他に斬首3名、禁錮7名、岡田以蔵は獄門刑(さらしくび)という厳しい処分を受けた。お牢はその獄舎の一部が保存されたものである。
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新川のおとし 
文化財:高知市指定史跡 昭和35年
所在地:高知県高知市春野町森山
場 所:マピオン地図↓↓↓
築造期:承応元年(1648)
解 説
 新川は、承応元年(1648)、野中兼山によって造られました。
 弘岡井筋(ひろおかゆすじ)は、農業面も灌漑用水路としてでなく水運路としても利用されました。
 八田堰が出来るまでは、奥仁淀の木材や薪炭は仁淀川を下り、新居の「甫淵」に運ばれ、そこから太平洋に出て浦戸湾から高知城下に運ばれていたようです。ところが、八田堰は筏越しを作らなかったため、下流への物資は全て弘岡井筋を通らなければなくなりました。弘岡井筋は割合高いところを通ったため、新川の入口に、新川川の流れと高低の差を調整するために「おとし」を造りました。いわばこの「おとし」が水運路のノドとなりました。このため上流からの大きな筏は壊されて「おとし」を降し、物資もそのまま下ることは出来ず、いったん「せんば」に陸揚げされ、新川の者の舟に積み替えられて、吾南の物資と共に高知城下に運ばれました。だから、「おとし」の付近は、上流からの木材や木炭、雑穀、また高知城下や吾南から奥地に運ばれる日用品や雑貨が山と積まれ、これを取り扱う商人や運送業者で大変な賑わいでした。また、上流からの積荷や筏は、下流への運搬は新川の者に譲らねばならなかったのに対し、新川の舟は上流まで自由に登ることができる。
 保護策もとられました。このため元禄の頃には60軒余であった人家も、幕末の頃には、200軒近くとなり、新川は在郷町として繁栄を極めました。「涼月」や「清水」という料亭や、「用石屋」「杉屋」「中島屋」「えびす屋」などの商人の屋号は、大師堂の前の石灯篭の台石に刻まれて、今でも繁栄の姿を見ることが出来ます。
資料等:現地説明板
撮影日:2016年12月20日
近隣施設:涼月橋、大師堂(春野10景)=ポケモン居るよ。

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公園広場=船泊
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石積み突堤の先
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突堤
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栄華の名残?
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山内 一豊像
作 家:本山 白雲
材 料:ブロンズ
制作年:この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとに平成8年(1996)に再建除幕された。
設置場所:高知城公園
住 所:高知県高知市丸の内1丁目
解 説:
 土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(現愛知県)岩倉城主織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1576)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下(きか)として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(現滋賀県)長浜2万国の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(現静岡県)掛川5万国を領した。
 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの功績により、土佐一国24万国を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
資 料:Wikipedia、現地説明板
撮影日:2010年12月8日

本山白雲(辰吉)
本山 白雲、
明治4年9月1日(1871年10月14日)~ 昭和27年(1952年2月18日)
 日本の銅像作家。高知市桂浜の坂本龍馬の銅像の作者。本名は本山辰吉、「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた。

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