四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の賢人・偉人像

中岡慎太郎像
作 家:本山 白雲
材 料:ブロンズ
制作年:1935年
設置場所:室戸岬
住 所:高知県室戸市室戸岬町
解 説
中岡慎太郎
 天保九年四月十三日、土佐安芸郡北川村に生まれる。幕末の天下の志士と交友し陸援隊を組織し、その長となり海援隊長坂本龍馬と共に薩長連合をはかり明治維新の大業に尽力したが慶応三年十一月十五日、夜京都において刺客のため斃れた。
 昭和十年 安芸郡連合青年団・室戸岬町青年団建立 

~略 歴~
明治4年9月1日(1871年10月14日) 土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下で生まれる
明治23年(1890年7月)宿毛出身の岩村通俊の援助を得て、東京美術学校(現 東京芸術大学)彫刻本科に入学
明治27年(1894年)東京美術学校を卒業
昭和27年(1952年)2月18日没

~パブリックコレクション~
1935年 中岡慎太郎像 室戸岬(高知県室戸市)

資 料:現地石碑など
撮影日:2015年12月9日

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山内 一豊像
作 家:本山 白雲
材 料:ブロンズ
制作年:この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとに平成8年(1996)に再建除幕された。
設置場所:高知城公園
住 所:高知県高知市丸の内1丁目
解 説:
 土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(現愛知県)岩倉城主織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1576)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下(きか)として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(現滋賀県)長浜2万国の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(現静岡県)掛川5万国を領した。
 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの功績により、土佐一国24万国を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
資 料:Wikipedia、現地説明板
撮影日:2010年12月8日

本山白雲(辰吉)
本山 白雲、
明治4年9月1日(1871年10月14日)~ 昭和27年(1952年2月18日)
 日本の銅像作家。高知市桂浜の坂本龍馬の銅像の作者。本名は本山辰吉、「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた。

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板垣 退助像(老年期の像)
作 家:本山 白雲(辰吉)
材 料:ブロンズ
制作年:大正12年(1923)12月5日、高知城公園に建立。昭和18年(1943)9月2日金属供出せられ、のち再建)
設置場所:高知城登城口
住 所:高知県高知市丸の内 城内

~略 歴~
明治4年9月1日(1871年10月14日) 土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下で生まれる
明治23年(1890年7月)宿毛出身の岩村通俊の援助を得て、東京美術学校(現 東京芸術大学)彫刻本科に入学
明治27年(1894年)東京美術学校を卒業
昭和27年(1952年)2月18日没

~パブリックコレクション~
1928年 坂本龍馬像 桂浜(高知市)
1935年 中岡新太郎像 室戸岬(高知県室戸市)
1996年 山内一豊像(復元) 高知城公園(高知市)
資 料:Wikipedia&現地紹介板
撮影日:2010年12月8日

板垣退助(1837~919)
 近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保八年(1837)四月十七日高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊辰戦役の折に先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。
 維新後、新政府の参議に列したがやがて下野。明治七年(1874)一月、民選議員設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年四月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。
 明治十四年(1881)十月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、四月六日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか。「板垣死すとも自由は死せず」の名文句となり、怒涛の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。
 明治二十年(1887)五月、伯爵を授けられたが一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任じられること二回、晩年は政界を隠退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正八年(19191)七月十六日、八十三才で死去した。
 遺著に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。

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結網學人・牧野 富太郎像
材 料:ブロンズ
制作年:昭和四十九年
設置場所:高知県立牧野植物園
住 所:高知県高知市五台山4200-6
作 者:本郷 新
~略 歴~
文久2年4月24日(1862)5月22日~昭和32年(1957)1月18日
高知県高岡郡佐川町出身。
「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。
資 料:Wikipedia
撮影日:2014年1月8日

高知県立牧野植物園
1958年(昭和33年)に牧野富太郎の業績を記念する建物として、五台山に「県営牧野植物園」として開園する。1999年(平成11年)には園内に牧野富太郎記念館(内藤廣設計)が開館し、リニューアルオープンし、平成20年(2008年)4月には南園に「50周年記念庭園」が誕生した[3]。 2010年(平成22年)4月24日には新温室がオープンした。
園内には3000種近い植物が栽培されている。


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日柳燕石(くさなぎえんせき)と呑象楼<><>
 呑象楼(どんぞうろう)は香川県琴平町榎井・榎井小学校北西角に移築されました。楼内は公開されていないので写真は有りません。
 日柳燕石(くさなぎえんせき)は讃岐の国榎井村に生まれ石崎近潔・三井雪航・岩村南里・奈良松荘などに学び恩師の二人が勤皇家で有ったため生涯に大きく影響を受けた。
 21歳で家督を継ぎ33歳まで遊興・博徒と知られた反面、勤皇の志篤く大和十津川義挙に参加すべく元気な若者を集め待機していたが大和義挙が不首尾に終わったが為に出発を取りやめた。
 高杉晋作も下関で武士以外の若者を集め奇兵隊の組織を作ったのも燕石の意中を表している。
 高杉晋作が幕吏に追われ燕石を頼って来て榎井に亡命したのをかくまい潜匿(長谷川佐太郎の家(今は丸尾本店という造酒屋)・逃亡させたとがから高杉の身代わりになり4年間投獄された。出獄後に上洛して木戸孝允と行動を共にして軍記方として北陸に従軍中に越後柏崎で病死した。墓は新潟県柏崎小学校西側にある。参考資料:現地説明板などによる。
 アクセス:高松からは旧国道32号琴平交差点マルナカ琴平店裏側と榎井小学校との間
 写真は2009年10月16日撮影

 呑象楼
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 燕石の銅像
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 説明板
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