四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 石碑・石塔など

鎌倉芳太郎顕彰碑
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山大寺池
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嶽山
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白山
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場 所:山大寺池堰堤
住所:香川県木田郡三木町

出身地:香川県木田郡三木町氷上
略歴・業績等
 香川県師範学校、東京美術学校図画師範科に学んだ。大正十年卒業と同時に沖縄県女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校教諭併任となった。芳太郎にとり琉球列島の風土景観全てが珍しく当時出始めた写真機を使い風物を撮影。沖縄伝統の紅型にも興味を持ち研究を重ねて新境地を開く。また、首里城を撤去し沖縄神社を作る内務省方針を知った芳太郎が建築家の東京帝国大学教授「伊東忠太」に連絡、今日の城郭が残り国指定の史跡となった。戦火で破壊された城跡などの再建には、芳太郎の記録がなければありえなかった。沖縄諸島の写真だけでも千数百枚もあり見聞きした風物なども細かく記録した帳面は八十冊に及び各地で遺宝を見つけた。
 のち、東京美術学校助教授となり多くの資料物品を東京に保管、これらの貴重な資料が戦火を免れた。
 沖縄研究は多岐にわたり、昭和四十八年に重要無形文化財保持者に認定され、沖縄県立芸術大学に研究資料が収蔵されている。
 昭和五十八年に死去。
 顕彰碑はさぬき百景山大寺池堰堤の風光明媚な所に建っている。北に白山、西に嶽山、南に三木町運動公園その東に太鼓の森などがある。
本 名:
 号 :
[明治31年(1898)10月19日~昭和58年(1983)8月3日]
建 立:鎌倉芳太郎顕彰会 平成二十二年十月
資料等:現地石碑、Wikipediaなど
撮影日:2023年8月19日
駐車場:別になし、近くの空き地に駐車。

花園町の由来記念碑
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住 所:香川県高松市花園町
解 説
 高松が城下町が出来たころ、この辺りは静かな郊外で、眺めがよく、はるか北の沖松島の八丁土手辺りに美しい松並木が見えたという。
 江戸時代のいくつかの城下絵図には、花畠と記されており、一面の花園であったらしい。
 高松城を築いた生駒家の別荘がこの地にあったが、松平家になって、初代藩主頼重公は、この別荘を老臣彦坂織部正に与え「静観荘」と名付けられた。
 また、その北側には重臣谷有馬の「詠帰亭」があり、この辺りは別荘地であったことが伺える。
 また、藩医池田玄丈が五代藩主頼恭公の命により砂糖きびを栽培したのもこの花畠であったといわれる。
 大正十年に花園町が誕生したが、花園という地名は江戸時代の花畠に由来する。
建 立:平成六年十月吉日 花園地区地域おこし事業推進委員会
 書 :
資 料:現地説明石碑など、
撮影日:2018年10月8日

川谷尚亭先生書碑
瀟灑風流(しょうさいふうりゅう)
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業 績:書家
出身地:安芸郡川北村(現安芸市川北)
場 所:江ノ川上公園

住 所:高知県安芸市矢ノ丸2丁目7−15
解 説
 日下部鳴鶴、丹羽海鶴、比田井ひだい天来てんらいらの薫陶を受けています。のち大阪に移り、大正13年(1924)甲子こうし書道会をおこし雑誌『書之研究』を創刊。以後没するまでの八年間、書の研究と普及に精力的に取り組みます。大正15年、堺に建立の土佐藩烈士碑文を揮毫。昭和2年(1927)名著『楷書階梯』、翌3年には大著『書道史大観』を著し、我が国近代書道の先駆的役割を果たしました。
 桂浜の大町桂月碑文は先生揮毫になる

 略 歴
1886 安芸郡川北村(現安芸市川北)生まれる
1933 死去享年47歳

本 名:賢三郎
父 親:川谷市太郎
母 親:
建 立:
 書 :南不乗
資 料:現地説明板など、
撮影日:2015年9月2日

南不乗先生書碑
幽貞

解 説:朴訥にして強烈、野生味あふれる真の土佐人であり、書壇に清新の気を注入し、またその温情の深さは、接する者等しく心に刻まれている。
場 所:江ノ川上公園 高知県安芸市矢ノ丸2丁目7−15

プロフィール
1914 高知県安芸郡安芸町生まれ
1961 書道団体「現日会」結成
1979 安芸市名誉市民
1987 東京で没する(享年77歳)

本 名:手島新人【大正3年(1901)~平成3年(1991)】
父 親:手島鷹太郎
母 親:孝
建 立:
資 料:現地説明板など、
撮影日:2019年4月5日

手島右卿先生書碑
手島右卿(抱牛)
【明治34年(1901)11月3日~昭和62年(1987)3月27日】

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業 績:書家
出身地:安芸郡安芸町(現安芸市)
場 所:江ノ川上公園 高知県安芸市矢ノ丸2丁目7−15

解 説:

プロフィール
1901 高知県安芸郡安芸町生まれ
1915 川谷尚亭の門に入る
1933 南海書道会を興し、競書誌「南海書聖」を主宰する
1935 上京。比田井天来の門に入る。書道芸術社同人に推される
1937 第1回大日本書道院展で特別賞を受賞 同院参事、審査員、書学院教授に任じられる
1939 蒼龍社を結成する
1947 書道芸術院結成。総務理事となる
1950 日本書作院結成 副会長に推される
1951 (社)日本書道連盟設立 理事となる
1952 独立書道会(現独立書人団)を結成 代表となる
1966 専修大学に文学部初代教授就任 日本書道専門学校を創設、初代校長となる
1987 鎌倉市で没する(享年85)

本 名:南海巍(なみき)
父 親:手島鷹太郎
母 親:孝
建 立:
資 料:現地説明板、Wikipediaなど、
撮影日:2019年4月5日

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