四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の民話伝説昔話

弘法水(弘法大師の加持水)
住 所:愛媛県西条市北浜北
マピオンマップ↓↓↓↓
解 説
 鉄砲場の少し下の海中にあり潮退たる時注ぎて見れば小の窮より清水湧き出づ溜と成し処三尺許もあり、弘法大師の加持水と云い伝わる。現地石碑より
 現在は、打ち抜きポンプアップ、飲み水加熱要。
民 話:弘法大師の加持水 ↓↓↓↓
文化財:西条市名水・名木50選【弘法水】、
資 料:現地説明石碑、西条市HP、など
撮影日:2016年11月8日
近隣施設:マルトモ水産港橋
蛇 足:

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眼洗い井戸
場 所:赤亀山 寺山院 延光寺境内
住 所:高知県宿毛市平田町中山390
マピオンマップ↓↓↓↓

由 来:
伝 説:
 延暦十四年(795)空海久しく当山に錫を止め再興のの法を行いせられるに浄水乏しきを嘆かわれ、本尊に凝して地を掘りして加持すれば霊水自ら湧き出る。空海この水を宝医水と名づけ閼伽水(あかみず)用う。一切衆生離苦得楽の為に八十八支の煩悩を断ぜしむ。今の眼洗井戸なり 云々
 井戸の後ろには、地蔵様が祀られている。
資 料:現地説明板
撮影日:2016年4月13日

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杖杉庵・衛門三郎霊跡
宗 派:高野山真言宗
本 尊:地蔵菩薩
開 基:伝空海
住 所:徳島県名西郡神山町下分地中

杖杉庵(じょうしんあん)縁起
 伊予の国、浮穴郡荏原の荘の長者「衛門三郎」は財宝、倉にみち勢近国に稀な豪族であった。それでいて強欲非道な鬼畜のようなこの長者は貧しい者を虐げ召使を牛馬の如くこき使って栄華の夢に酔いしれたいた。雪模様の寒いある日、その門前に一人の旅僧が訪れた。乞食のようなみすぼらしい旅僧は、一椀の食物を乞うた。下僕の知らせに衛門三郎はうるさげに「乞食にやるものはない追い払え」と言い捨てた。そのあくる日も次の日も訪れた。衛門三郎は怒気満面いきなり旅僧の捧げる鉄鉢を引っ掴むや大地に叩きつけたと見るや鉄鉢は八つの花弁の如く四辺に飛び散った。唖然と息を呑み棒立ちとなった衛門三郎がふと我に返った時には、旅僧は煙りの如く消え失せていた。
 長者には、八人の子供があった。其翌日長男が風に散る木の葉の如くこときれた。其の翌日には次子が亡くなり八日の間に八人の子供が亡くなった。鬼神も恐れぬ衛門三郎も恩愛の情に悲嘆にくれ初めてこれはおのが悪業の報いかと見に迫る思いを感じた。空海上人とか申されるお方が四国八十八ヶ所をお開きになる為この島を遍歴なされているとか、我が無礼を働いたあの御坊こそその上人と思われる。過ぎし日の御無礼をお詫び申さねば相すまぬと発心し懺悔の長者は財宝を金にかえ妻に別れ、住みなれた館を後に野に山に寝、四国八十八ヶ所の霊場を大師を尋ねて遍路の旅をつづけた。春風秋雨行けど廻れど大師の御すがたに合うことが出来なかった。遂に霊場を廻ること二十度会えぬ大師を慕い続けた。二十一度逆の途を取って此の所までたどり着いた。疲れた足をよろぼいつつ木陰に立ち寄り背に負うた黄金の袋を下ろして見ると何とした事ぞ一塊の石となっていた。いよいよ驚き今一歩も立ち上がる気力もなくうち倒れている折しも大師の御姿が現れ給い。やさしく「やよ、旅の巡礼、そなたは過ぎし日わが鉄鉢を打ち砕いた長者にあらずや」と御声「われは空海いつぞやの旅僧なり」「ああ上人さまお許しなされませ、お許しなされまし」と伏し拝み懺悔の涙はらはらと手を合わせ大悲にすがる長者は今こそ悪業深さ無明の闇から光明世界へ還らんとする姿であった。「そのたの悪心すでに消え善心に立ち還った。この世の果報はすでに尽きたり来世の果報は望みに叶うであろう」と仰せられ、衛門三郎は大慈大悲を掌に救われ来世は一国の国司に生まれたいと願った。大師は其の心を憐れみ、小石を其の左手に握らせ、必ず一国の主に生まれよと願い給い、衛門三郎はにこっと微笑みをのこし敢え亡くなった。
 その日は天長八年十月二十日と伝えられる。大師は衛門三郎の亡骸を埋め彼の形見の遍路の杉の杖を建て墓標とされた。その杖より葉を生やし大杉となった。故に此の庵を杖杉庵と呼ばれ今尚大師の遺跡として残っている。
 此の杉は、享保年間消失した。その頃京都御室から「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られ、四国遍路の元祖として今もこの地に祀られている。
 現地説明板より転載しました。

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るり姫伝説 紙芝居
 十六世紀も終わりの頃の話です。
 白滝のすぐ隣、米津(よなず)という所に「滝の城(別名米津城)」がありました。切り立った崖の上にあり、敵にも中々攻めにくいお城でした。
 白滝公園は、城主の津々喜氏の遊園地でもありました。桜のほころぶ頃には、奥方の瑠璃姫は家臣と共に白滝公園によくやった来ては、花見をたのしんだものでした。
 家老の下西左衛門も、分銅のついた鎖を振り回す「乳切木術」という舞を、力強く披露しました。瑠璃姫らは、かっさいをおくり、平和な春の白滝を満喫していました。
 この平和なお城も、「戦国時代」の波が押し寄せてきたのは、それから数年後のことでした。断崖絶壁の上にたてられたお城も、四国一の力を持つ長宗我部氏の前に、簡単に取り囲まれてしまいました。
 しかし、瑠璃姫の娘、八重姫・九重姫は、八双手裏剣の名手。瑠璃姫自身も清流長刀の指南であり、また吹き矢は神技とも言われるほどの腕前でした。
 「殿、瑠璃姫らの見事な吹き矢にて、我が軍も多数の負傷者が出ております。ほとまず退散して、体制を整え直してはいかがでしょか。」
 敵の軍勢は、じりじりと後退し始めました。「もう一息です。すべての吹き矢をここに持ってきなさい。」瑠璃姫の必死の叫び声が、山々に響き渡ります。
 そのときです。一人の侍女が、吹き矢を運びながら、瑠璃姫にこう叫びました。「瑠璃姫様、大変です。これが残りの吹き矢すべてでございます。」吹き矢はもう十数本しかございません。
 「なるほど、瑠璃姫の吹き矢も、これでおしまいか。ものども、もはや、ひるむことはない。かかれ。」、今にも退散しかけていた長宗我部の軍勢も、この侍女の言葉に、たちまち勢いを取り返しました。
 城は、まもなく討ち滅ぼされてしまいました。一方、瑠璃姫らは、やっとのことで、白滝の雌滝の上まで逃げ延びてきました。しかし、背後に、追っ手はなおも近づいてきます。
 「もはや、これまで。」そう悟った瑠璃姫は、八重姫、九重姫を呼び寄せて言いました。「敵にとらえられ、一生辱めを受けるこの尊雄丸が不敏です。私は、この子とともに、この滝より身をなげようと思います。」
 「世に悩める婦人病を治し、子のない婦人には子宝を授けるため、生き延びて、我らが霊を慰めよ。」瑠璃姫は、泣すがる二人の姫を振り払い、尊雄丸と共に滝壺の中に吸い込まれていきました。
 残された姉妹の二人は、瑠璃姫の言いつけに従い、何とか逃げ延び、後に瑠璃姫と尊雄丸の霊を弔う観音様を奉りました。
 それ以来。ここ白滝に住む者は、「瑠璃姫祭り」をして、二人の霊を慰めるようになったのです。
 毎年十一月二十三日に行われるこの「瑠璃姫祭り」は、幼児の無事成長を願う「稚児行列」と雌滝の上から落とす「樽御輿」で有名で、この時期には多くの観光客が訪れます。
 製作 白滝フロンティア会 伝説「女郎が淵」より

るり姫塚の由来
 戦国末期、元亀元年(1571)秋、現在の愛媛県大洲市米津地区にあった米津城(滝ノ城)は、土佐の長宗我部氏による再三の侵攻に奮戦むなしく、ついに落城した。城主の奥方、瑠璃の方は、二歳になる世継ぎ尊雄丸を小脇に抱え、八重姫、九重姫と侍女達を励まし、血路を開いて白滝公園のこの地に辿りついた。
 そこで二人の姫をそば近くに招き「姉妹は後に生き残りて霊を慰め、冥福を祈れかし、世に悩める婦人病をなおし、子なき婦人には子宝を授け得させん」と叫びつ、尊雄丸を抱き六十メートル下の滝つぼへ投身した。残る侍女達も続いて滝つぼへととび込み水死した。今、この滝つぼを「女郎が淵」と称えている。米津城の十六代城主、吉右衛門蔚、藤原行春(津々喜谷遠江守藤原行春)も残る家臣と共に菩提寺である横松山西禅寺(大洲市成)において自刃して果てたと云い伝えられている。当地では、これらが霊を慰めるため、毎年十一月二十三日を祭日とさだめ、るり姫の供養が盛大に行われる。
長浜観光協会(現大洲市長浜支部)
以上、現地説明板より転載しました。

撮影日:2014年11月6日
近郊施設:沖浦観音、不動滝、長浜大橋

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雌滝
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【鬼ヶ島大洞窟】
 桃太郎伝説
 桃太郎伝説は全国に残されていますが、隣の県の岡山が有名ですが、香川県高松市にも残されています。
 鬼を退治した桃太郎は、その名を「ワカタケヒコノミコト」お兄さんが「キビツヒコノミコト」お姉さんが「ヤマトトトビモモソヒメノミコト」お父さんが「孝霊天皇」。
 お供をした「犬」は、泳ぎ上手で航海術に長けた備前牛窓・犬島の住人で、「猿」は、綾歌郡陶の住人。猿王館、猿屋、猿飼などに子分が大勢いた。「雉」は、佐料の雉が谷の住人で弓の名人。それぞれが力を合わせて、鬼退治に成功し宝物をどっさり持ってて帰ります。
 女木島大洞窟
 女木島大洞窟は香川県高松市女木島町の鷲ヶ峰(標高188m)の山頂直下に横穴が口を開けています。洞窟の約400m、広さ4000平方メートル、洞窟内の温度は通年15度の天然のエアコンが入った状態です。
鬼が住んでいたという洞窟は、大広間があったり、大岩で宝物を隠していた穴もあります。美しい女性をさらってきては監禁した薄暗い洞窟もあって気味の悪い所です。
 この洞窟が発見されたのは昭和6年でそこで桃太郎伝説とが結びついたというわけです。(なぜ女木島の住人が知らなかったのは不明です。) 予断 この洞窟は鎌倉時代の「石切り場」が有力です。
 洞窟の入洞料は五百円です。瀬戸内国際芸術祭パスポート持参で200円です。洞窟までのバス台が往復六百円女木島は四国新聞社選定さぬき百景「女木島」に選ばれています。女木島海水浴場は快水浴場百選に、鬼ヶ島洞窟・鷲ヶ峰附近は新香川50景「女木島大洞窟周辺」に選ばれた風光明媚な場所です。
 MyBLOG女木島 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/33337351.html
 MyBLOG女木島海水浴場  http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/33260096.html
 写真は2010年9月14日撮影

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 柱状節理=高松市指定天然記念物 出口の頭上にあります。
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