四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の港

室本漁港
住 所:香川県観音寺市室本町
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管理者:観音寺市
解 説:
 本港は、古くから江浦山のふもとの船泊りとして利用されてきており、江戸時代には丸亀藩の年貢米の積出し港として栄えました。
沿 革:
 既に15世紀には「室本惣浦」と見え、仁尾・観音寺と共に港町として栄えていたようである。また中世から麩の生産が盛んであり、近世には丸亀藩から専売が認められていた。麩生産は現在(2005年現在)でも行われている。
 漁港最奥部(南端)の内港が埋め立てられているため、全体の構成がやや不鮮明であるが、埋め立て前の空中写真を見ると、その状況がよく分かる。九十九山北麓から張り出す砂堆の背後(東側)に小規模な船溜まりが2箇所あり、内港を形成していた。この内港の構築時期は明確ではないが、自然地形に大きく依存した立地であること、また室本集落を貫く街路が内港を起点とすることなどから、近世まで遡ることは確実であろう。その外側(北側)に大規模に造成されたのが、現在の室本漁港の主要部(外港)である。
 外港の西側を画する2号防波堤は、昭和7年度から昭和10年度にかけて構築された。また外港の東側から北側を区画する第3号防波堤は、昭和8年度から昭和11年度に構築され、昭和10年前後に外港の骨格が出来上がった。外港の物揚場に面に建ち並ぶ倉庫群も、昭和初期の建築であろう。
 昭和29年度には、外港よりもさらに沖側に1号防波堤が構築され、以後、周辺の埋め立ても進み現在に至っている。
施 設:
 旧内港の状況は現在では全く分からず、外港の2・3号防波堤が比較的良好に遺存している。
2号防波堤
 現在の延長は42.0mであるが、周囲の埋め立て前は砂堆先端から延びており、基部の護岸も含めた当初の延長は130.0mを測る。
 石積みは、砂岩割石の落とし積みないし乱積みが主体であり、先端に近い箇所の上部は補修とみられる花崗岩谷積みである。
 先端側約90mは、防波堤の内側がテラスを伴う2段構成となっており、上段部には石室状の小スペースに花崗岩製の係船石柱が並ぶ。
3号防波堤
 現在の延長が62.0mで、埋め立てられた箇所を含めると108.0mを測る。幅は天端で2.30m、基底部で9.65m、高さ4.7mを測る。
 外側の法面から先端部にかけては、0.5~1.0m大の砂岩・安山岩の割石や自然礫による落とし積みで構成されており、勾配はかなり緩い。これに対して内側法面は砂岩間知石による谷積みであり、勾配はほぼ垂直に近い。内側は幅の狭いテラスを伴う2段構成であり、下段は防波堤本体の腰巻き石積みとして構築されている。これは近代の塩田堤防と同じ構築方法であり、下段構築後に上段を造る箕浦漁港外港防波堤とは明確に異なる。
 係船石柱は、①粗く加工された方柱形、②表面を丁寧に仕上げた隅丸方柱形、③表面を丁寧に仕上げたT字形柱頭の円柱、の3種類があり、いずれも花崗岩製である。①は内側上段の石室状の小スペース内、②は先端部上面、③は基部上面にそれぞれ設置されている。
まとめ:
 外港の3号防波堤が良行に遺存するが、その特徴として、①地場の石材で谷積みを採用すること、②2段構成の内側下段を塩田堤防と共通した腰巻き石積みとして構築すること、③石室状の小空間に係船石柱を設置すること、の3点典型的に表れていることが挙げられる。特徴①・②は、曽保漁港南防波堤(新)でも確認でき、昭和10年代頃における地域色のある石造り防波堤の仕様を示している。 
文化財:香川県の近代化遺産(石造り防波堤)
資料等:香川県の近代化遺産(2005年3月)、WEBより、
撮影日:2018年1月31日
近隣施設:観音寺琴弾八幡神社伽藍寺

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久礼新港
住 所:高知県高岡郡中土佐町久礼
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解 説:
 太平洋に面する久礼湾に新しく出来た港。久礼湾には、久礼川河口の一番古い久礼内港と後にできた久礼外港、他に鎌田港などがある。
 久礼港は、昔は四万十川流域の良質な木材の移出やカツオの加工品などで繁栄していたそうです。
 久礼外港付近では、川霧や海霧で幻想的な風景が見られるときもあるようです。運が良ければ達磨夕日も見れるかも。
 ビッグコミック誌「土佐の一本釣り」の舞台になり、鰹・漁業のイメージが全国区。
文化財:「みなとオアシス久礼」
撮影日:2017年8月24日
資料等:中土佐町HP、四国整備局HPなど

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市場
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外港方面
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伊尾木漁港 (石積堤)
住 所:高知県安芸市下山
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解 説:大山岬にある伊尾木(いおき)漁港石積堤は、土佐藩の家老野中兼山が築造した港で、江戸時代の終わりに石組と防波の建設に取りかかったが、藩の財政難から工事は中断。長い時を経て平成12年にようやく完成した。尚、周辺の海岸段丘も必見。
恋人の聖地=2006年選定、夕日のスポット、
文化財:未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選=平成18年選定
資料等:恋人に聖地PROJECT HP、高知県安芸市など
撮影日:2017年4月5日
近隣施設:野良時計土居廓中岩崎弥太郎の生家、道の駅「大山」、

高知県安芸市 【史実・伝承編 伊尾木漁港石積堤】PDF文章より
 伊尾木漁港の整備計画は、江戸時代中期に既に進められ、藩の仕置役の百々弥左衛門が工事を見積もらせたとの記録が残っている。江戸時代末期には、漁港整備を目的に内港の開削を進め、石積みの防波堤建設に取り掛かったが、藩の財政難から工事は中断された。そして、放置された跡地に水が溜まって河野池ができ、「兼山のあほう堀」とも呼ばれた。新田開発や各地の港湾整備など、さまざまな土木事業を手掛けた野中兼山にちなんだものである。
 また、この池には古くから蛇が住んでいるといわれ「河野の池には蛇が居るそうじゃ、その蛇は雄じゃか、雌じゃか、わからんそうじゃ」と囃し唄われた。しかし、昭和のはじめ伊尾木の青年団や消防組が動力ポンプで替干をしたことがあるが、蛇は遂に姿を見せなかったという。
 港の修築計画は、その後幾度となく企画されたが、資金難などを問題にどれも実現しなかった。ようやく、昭和48年(1973)に着工され、平成12年(2000)に完成している。昭和50年代には、発掘調査が行われ、当時の石積堤の一部は歴史的遺産として漁港内に保存された。
 現在では、伊尾木漁港の護岸は河野公園として整備され、太平洋に向けて突き出すような形になっているため、晴れた日にはさんご礁が、冬場には「だるま夕陽」(光の屈折により夕陽が水平線に溶け込み、ダルマのように見える夕陽)が見えるといわれ、美しい景色を楽しむことができる。

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道の駅「大山」
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漁業組合事務所兼市場
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 出羽島港口の東西の大波止の積石 徳島県海部郡牟岐町出羽島 牟岐町史跡指定 平成20年8月19日
 出羽島(てばじま)は、牟岐港から3,7kmの太平洋上にある。港口の大波止の積石は、明治四年頃に、官費半額と住民の負担半額を以って構築された。
 その長さは、西側44m、幅7,2m、高さ4,6m 東側は長さ28,4m、幅7,2m、高さ4,6mである。
 先人の苦労の跡が残る石積の価値は大きい。なお、内側に二ヶ所崩れた積石の跡が遺っているが、この積石以前の築造であるという。
 漁村に残る歴史的価値の高い史跡として保全に努めたい。
 平成24年1月24日 牟岐町教育委員会 説明板より転載しました。
 水産庁は、平成18年2月17日に未来に遺したい漁業、漁村の歴史文化財百選に選定した。
 http://www.gyokou.or.jp/100sen/100sen-pdf/100senlist.htm
 港の積石波止は数多く見たが、ここの波止のように丸い自然石で積み上げたのを見たのは初めてでした。近代化土木遺産に指定されても可笑しくない建造物でした。
 写真は、2013年2月5日撮影
 場所は、ワイワイマップ『港(商業港・漁港)のMAP』にスポット投稿します。
 
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港内水に沈んでいるのが旧波止
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出羽神社
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港外で波打っている所が丸石で出来た州鼻
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【手結内港】
 手結内港は高知県香南市夜須町に江戸時代に築造された石積みの港です。
 外港から内港の入口には2002年竣工の32,8mの可動橋が架かっています。この橋は一日6回ほど1時間から1時間半ほど通行できる。夜から朝にかけては通行不可となりその間は旧道を迂回する事になる。

 この港の建設年代は文献によって異なるようだが、通説では建設地に露出する高い岩盤の試掘などの予備調査を経て1652年に着工し3年後の1655年に完成したとされる。その水域の規模は、南北約110m、東西約50m、水深は干潮時で約3mという江戸時代初期としては最大級の港である。
 手結港は海岸の岩礁地帯の入江を掘削して造られた。一般的には日本最初の本格的な掘込港湾といわれる。一方で、岩礁地帯の窪地に石垣を築いて背後を埋め立てて建設されたため、埋立港湾に分類されるという説もある。岩礁地帯における築港とはいえ、一部軟弱な地盤があったようで、木材を敷き詰め、その上に石垣を築き対処している。石材は近隣から船で運搬したそうである。
 建設されてから350年という長い年月と近代化の中で、港としての主要な役割は大正期に建設された外港へと移されたが、今でも漁船が係留され使われ続けている現役の港である。
 高知県HP&Wikipediaなどより転載しました。

 長宗我部地検帳に多くの水主の居住が示され、港の歴史は古い。
 野中兼山が修理を加え、利用度を高めた堀湊で有名である。小倉弥右衛門(三省)が責任者としてこれに当った。慶長三年(1650)築港に着手し、明暦三年(1657)に竣工したのが現在の内港である。南を半島によって囲まれ港口を西に向けて夏の暴浪を防ぐ事ができる。土佐藩屈指の良港であり、石積みが往時を偲ばせる。
 近年、地の利を得て、周辺の美しい自然と海洋性資源を基調とした海洋性レクレーション基地として注目されている。
 文は現地説明板より転載しました。
 写真は2012年7月9日撮影
 場所はワイワイマップ『港(商業港・漁港)のMAP』にスポット投稿します。

 内港入り口の手結港の碑
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 手結港
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 常夜燈(昔の灯台)
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 金毘羅大権現祈願塔
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 手結可動橋
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