四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の史跡・城址(城)

【喜岡城跡(高松城趾)】
 喜岡城跡(高松城趾)香川県高松市高松町の住宅街に残っています。
 鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、建武2年(1335)11月26日、足利尊氏の臣「細川定禅」らの軍勢に攻められ、老父一族14人と郎党30余人討死し、落城しました。
 その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正13年(1585)4月26日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約2万3千の攻撃をうけ、手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか二百をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。
 高松町長塚は、当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。
 高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。
 文は現地『高松市・高松観光協会』説明板より転載しました。

 城郭:平山城
 築城主:
 築城年:
 主な改修者:
 主な城主:舟木(高松)頼重、高松左馬助頼邑
 廃城:天正13年(1585)4月26日

 文は現地説明板などより参照。
 写真は2012年5月22日撮影
 場所はワイワイマップ『城・城址のMAP』にスポット投稿します。

 城跡
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 喜岡権現社(岡神社)
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   この塚はかって当地点から北東約150mの地点に一基、やや東南寄り約190mの地点に一基に存在していた。
 周囲は肥沃な農地であったが昭和四十八年六月から始まった高松市高松町土地区画整理事業施行の際に此の地に遷し合祀したものである。現地石碑より。
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 円柱の柱が祀られていたが、地神?
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 栄松山 不二院 喜岡寺は 宗派 真言宗御室派 開基 覚行法親王 本尊 不動明王
 寛喜元年(1229)に覚行法親王が常光寺として開基したが、後に焼失し長らく廃寺となっていた。ところが、文禄三年(1592)に古高松村の旦那衆が常光寺の復活を願って堂宇を建築し、この地がかつて喜岡城跡であったことから喜岡寺として中興した。 087-843-0452
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 本堂
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【撫養城(岡崎城、林崎城)】
 撫養城(むやじょう)は、徳島県鳴門市撫養町の標高60mの妙高山の平山城です。
 天正十三年(1585)蜂須賀家政が阿波に入国し阿波国内九ヶ所に城塞を設けた。撫養城は淡路渡海の押さえとして異母弟の「益田内膳正忠」を城番にし手勢三百名をもって守らせた。
 寛永十五年(1638)一国一城の令により阿波九城は破却された。
 《三好氏の臣「小笠原撫養氏」より撫養城と呼ばれている》

 現在ある天守は、徳島県立鳥居記念博物館(現在は徳島市へ移転)として昭和40年(1965)鉄筋コンクリート造で天守閣風に3層4階建てを建築した。(現在立ち入り禁止) 撫養城には天守はありませんでした。
 現在は、妙見山公園として整備されている。公園内には、19世紀のフランスのガラス工芸家、エミール・ガレの作品を鳴門ガレの森美術館がある他、清少納言の墓と伝えられるあま塚がある。

  城郭:平山城
 築城主:益田内膳正忠
 築城年:不明
 主な改修者:不明
 主な城主:小笠原氏、益田氏、蜂須賀氏
 廃城:寛永15年(1638)
 徳島県鳴門市指定史跡

 文は現地説明板&Wikipediaなどより転載しました。
 写真は2012年4月23日撮影
 場所はワイワイマップ『城・城址のMAP』にスポット投稿します。

 妙見山
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  妙見神社(みょうけん神社) 祭神 天御中主神
 当神社は、「造化の神 天御中主神」を祀る。この神は古く大地の未だ成立しない頃大空の真中に生れ給い天地万物の大元をおすへになり、有形、無形のみたまとして永久に世に幸を与えられた。
 そのおヽみいつによって次々に神々がお現れになりその尊い御神徳は計りしれない。故に、開運、延命、長寿、安産、海陸交通安全の守護神として広く信仰されている。
 平安末期、中国より伝わった北辰(北極星)信仰と結びついて妙見社として祀られるようになった。
 天保元年(1830)旧城主、四宮加賀守の子孫と撫養町林崎郷の近藤利兵衛氏がこの城跡に妙見神社として再建した。
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 ガレの森の美術館
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【徳島城(渭山城、渭津城)】
 徳島城は、徳島県徳島市徳島町の標高61mの城山に本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸が置かれていました。
 本丸は城山山頂に置かれた曲輪で、山城部分の中では最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山常番の詰た御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、火縄櫓が設けられていました。
 櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩主は城山麓の御殿で蔵し、城山に登る事は稀でしたが、本丸の御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危険を救いました。
 本丸の出入りは東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口「埋門」があり大名の非常時に対する備えが伺えます。
 東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった所に置かれました。天守の一階は七間(14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
 西二の丸には鉄砲櫓と帳櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。

 城郭:梯郭式平山城
 築城主:蜂須賀家政
 築城年:天正13年(1585)
 主な改修者:
 主な城主:蜂須賀氏
 廃城:明治2年(1869)

 --城山
 城山は、吉野川がつくった徳島平野の沖積地の孤立する小さい分離丘陵で、斜面は急で、傾度の平均は35.9度もある。
 古来、天然の常緑広葉樹林で覆われており、殆ど伐採されず保護されて来た。昭和三十八年に「城山原生林」として徳島市の文化財に指定した。現在は、長期的な安定状態の続く極相林としてホルトノキ群落がみられ、小丘陵としては、豊かな自然度の高い生物相を示している。昭和五十九年にはホルトノキが「徳島市民の木」に選ばれた。
 地形 海抜61.7m 東西約400m 南北約200m
 地質 古生代の三波川帯に属し、主に緑色片岩よりなる。

 文は徳島城説明板&Wikipedia&などより転載しました。
 写真は2012年4月23日撮影
 場所はワイワイマップ『城・城址のMAP』にスポット投稿します。

 徳島城平面絵図
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 徳島中央公園駐車場からの登山道
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 石垣
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 本丸跡
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 弓櫓跡
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 巨木の楠
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 東二の丸跡(天守跡)
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 太鼓櫓
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 下乗橋(小見付橋)
 城内の堀に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む御殿への正面出入り口にあたります。この橋を渡ると桝形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていました。下乗橋の名前は、橋の前で駕篭などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来しています。明治二年(1869)花崗岩製になり、さらに明治四十一年(1908)現在の様に水平の橋に改造された。
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 鷲の門
 徳島城(渭津城)は、天正十三年(1585)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城であった。幕藩時代を通じて蜂須賀家が十四代にわたって居城し、二百八十余年の間、阿波・淡路両国二十五万七千八百石を支配した。
 鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付の薬医門であった。幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したところから鷲の門のながあると伝えられている。
 廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和二十年(1945)七月四日早晩の徳島大空襲によって焼失した。
 現在の鷲の門は、平成元年(1989)九月二十七日、徳島市制百周年を記念して、吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。
 現地石碑より転載しました。
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 数寄屋橋
 徳島城鬼門(北東)あたる門が、旗櫓の下にあった数寄屋門です。別名「不明門」とも呼ばれたように、城内の凶事(きょうじ)の際以外には開かれる事のない門でした。
 その数寄屋門の東側、堀に架け渡された橋が数寄屋橋です。長さ五間(約9.75m) 幅一間(約1.975m)の太鼓橋でした。現在は、木製の橋が掛けられており、往時を偲ばせるものとなっています。
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 城山の貝塚 
 徳島市指定文化財(史跡) 昭和三十八年四月二十七日指定
 貝塚は、古代人が食料とした貝や魚類・鳥獣などの残滓(ざんし)や、生活に使用された土器や石器などいろいろな物を処分した「ごみ捨て場」であり、また時には死者を埋葬する墓地でもあった。
 城山の貝塚は、約4,000~2,300年前の縄文時代後期~晩期を中心とする岩陰・洞窟遺跡であり、現在この3号貝塚のほかに1号貝塚・2号貝塚が存在する。
 大正十一年(1922)に鳥居龍蔵博士らによって発掘調査が行われ、なかでも2号貝塚では、ハマグリ・カキ・ハイガイなどを主体とした厚さ60~100㎝にもおよぶ貝層が確認され、縄文時代後期の土器片や、ほぼ完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨が出土した。なお3号貝塚からは弥生土器も出土している。
 城山貝塚は、当時の人々の生活や自然環境を知るうえで重要な遺跡として、また徳島県における考古学調査の先駆けとなった遺跡としても評価されている。
 文は徳島市教育委員会現地説明板より転載しました。
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【松山城】
 松山城は、道後平野の中心にある標高132mの勝山山頂に築かれました。城を築くため、加藤嘉明は家臣の「足立半右衛門重信=土木工事で多くの業績を残しています。」と「山本八兵衛」に普請を命じ、慶長七年(1602)一月十五日、築城に取り掛かります。資材は近隣産地から集めたが存在していた城からも材料を調達した。湯築城からは石垣、松前城(加藤嘉明が伊予に入封した城)からは石材と共に筒井門・乾門・乾櫓が運ばれた。

 城郭:連郭式平山城
 築城主:加藤嘉明
 築城年:慶長7年(1602)着手
 主な改修者:松平勝善
 主な城主:加藤氏、松平(久松)
 廃城:明治6年(1873)

 天守の全高は、本壇から20m(鯱鉾の高さを入れると21.3m)。本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、大天守の標高は約161mあることになります。これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。 
 江戸時代には、全国に170箇所はあったともいわれるお城ですが、江戸末期から明治にかけての戦乱や明治政府による廃城令、また天災や第二次世界大戦での戦災などにより、数多くの城郭が失われ、今や江戸時代以前に建造された天守が現代に残っているのは、全国で12城しかありません。
「弘前城」「松本城」「丸岡城」「犬山城」「彦根城」「姫路城」「松江城」「備中松山城」「丸亀城」「松山城」「宇和島城」「高知城」
 文は松山城HP&Wikipedia&アトラス出版刊「松山城の秘密」などより参照。
 写真は2011年12月14日撮影

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 天守より
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 附則
松山城跡=史跡 昭和27年3月29日1952(1952)
天守=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
三ノ門南櫓=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
二ノ門南櫓=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
一ノ門南櫓=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
乾櫓=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
野原櫓=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
仕切門=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
三ノ門=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
二ノ門=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
一ノ門=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
紫竹門=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
隠門=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
隠門続櫓=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
戸無門=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
仕切門内塀=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
三ノ門東塀=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
筋鉄門東塀=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
二ノ門東塀=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
一ノ門東塀=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
紫竹門東塀=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)
紫竹門西塀=重要文化財(建造物) 昭和10年5月13日(1935)

【阿波・一宮城】
 一宮城(いちのみやじょう)は、徳島県徳島市一宮町に位置する日本の城。東山湲県立自然公園指定。徳島県史跡指定(昭和29年8月6日(1954)。とくしま市民遺産選定。
 城郭:山城
 築城主:小笠原(一宮)長宗
 築城年:1338年(南北朝時代)
 主な改修者:蜂須賀家政
 主な城主:小笠原成助、蜂須賀家政、益田宮内
 廃城:1638年(寛永15年) 一国一城令による。

 一宮城は、前方に鮎喰川、後方に険しい山々がそびえ立つ自然の要害に築かれた大規模な山城であった。
 現在では、標高144mの本丸跡に石塁が残っており、その他、明神丸、才蔵丸、水手丸、椎丸、倉庫跡の遺構も明らかで、貯水池といわれるくぼ地もその跡をとどめている。
 この城は、南北朝時代、南朝に味方していた山岳武士の拠点であり、一宮氏が長年居城としていたが、成佑のとき土佐の長宗我部氏に占拠された。
 その後、秀吉が四国を平定し、天正13年(1585)、蜂須賀氏が最初入城したのが、一宮城であった。翌年、蜂須賀氏が徳島城に移ってからは、その支城として有力家臣を置いて守らせたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
 文は現地案内板&Wikipediaより転載しました。
 写真は2011年12月26日撮影

 登山入口
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 倉庫跡
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 曲輪跡
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 才蔵丸跡
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 城門跡
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 明神丸跡
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 城郭跡
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 本丸跡
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 釜床跡(炊事場跡現在は1基残っているが以前は並んで数基並んでいた。)
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