四国観光スポットblog

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カテゴリ: 仏生山・法然寺

仏生山・来迎院・法然寺
【黒門・広庭】

解説等
 門の名前は、全体が黒く塗られていることに由来します。
 法然寺に伝わる古い記録によると「大門」とも呼ばれていたようです。昭和六十二年(1986)、事故により門が倒壊したため、平成二年(1990)に以前の門の形式をもとに再建されました。再建前の門には高松藩の御庭焼である理兵衛焼の瓦で葺かれていました。
 門をくぐると「広庭」と呼ばれる空間がひろがっています。この広場(現在は駐車場)で、参道は、山上に向かう道、三仏堂に向かう道、本堂に向かう道の三つに分かれていました。
 この黒門から先が、極楽浄土となるといわれています。
 この門前で「下乗」、つまり駕籠などの乗物から下りるよう定められており、ここから先は特別であることが示されています。
 広場南側の出入り口は、江戸時代にはなく、広場は漆喰塗りの築地塀に囲まれていました。
本堂本尊:阿弥陀如来立像 伝 法然作
開 基:松平頼重
創 建:寛文8年(1668)
宗 派:浄土宗
札 所:法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天。
住 所:香川県高松市仏生山町字仏生山甲3215番地

電 話:087-889-0406
由 緒:Wikipedia参照
文化財:
資 料:現地説明板、Wikipediaなど、
H P:http://www.ark-a.com/nature/cat1_1/main.htm
駐車場:無料
関連記事:西念寺
撮影日:2020年3月23日
前回BLOG:法然寺五重塔仁王門から般若台総門・十王堂


二河白道
 総門から黒門までの参道は、仏教の「二河白道」の教えを表しています。
 現世である東の岸と極楽浄土のある西の岸のあいだには一本の細い道があります。道の
 南には火の河(怒りや憎しみを表す)、北には水の河(貪る心を表す)が広がっています。道に迫る火や水を恐れず、現世から見送る釈迦如来の励ましと極楽浄土から阿弥陀如来の招きを信じて道を渡れば、西の岸すなわち極楽浄土に辿り着けるというのが「二河白道」の教えです。つまり阿弥陀如来を一心に信じることが、極楽浄土へ辿り着く方法であることを説いているのです。
 参道の北にある蓮池(現在は仏生山小学校)を水の河に、南にある前池を火の河に見立て、参道が極楽浄土へ続く「白道」としています。このように実景として「二河白を表した例は全国でも珍しいものです。
 黒門までの参道は、十王の裁きの後、二河白道をとおって黒門から先に広がる極楽浄土へ辿り着くという配置になっています。
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黒門
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寺 名:法然寺:総門(柵門)~十王堂
住 所:香川県高松市仏生山町
解説等
由 緒
 法然寺Wikipedia
霊 場:法然上人二十五霊場第二番札所 さぬき七福神の大黒天
資料等:仏生山来迎院法然寺設置の説明板、
駐車場:無し(仁王門前駐車場へ=無料)
前回BLOG 2019年1月
関連BLOG:西念寺西光寺慧日山・正宗寺
撮影日:2020年3月23日
近隣施設:平池仏生山公園仏生山公園:ツツジ


総門(柵門)
 総門は、法然寺の表門で、ここから法然寺の境内がはじまります。法然寺が建てられた当初の様子を描いている絵図には、「柵門」と記されています。
 絵図によると、かつては、門の南側に番所と接待屋が設けられていました。接待屋は、藩主の葬儀が行われる際に、家臣に付き従って来た又者(家臣の家臣)が待機する場所でもありました。門から少し離れたところに「下馬札」があり、馬に乗って来た者に下りることをうながし、特別な場所であることを示していました。門の北側には、石垣を築いた上に柵と築地塀が設けられ、境内と外を区切っていました。
 総門のほか、境内への入り口として、庫裡の裏手にあたる北側に設けられた裏門、平池の北側に設けられた南門などがありました。
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十王堂
 十王堂いは、亡くなった人が生前に犯した罪を裁く閻魔王など十人の王が安置されています。
 仏教では、亡くなってから七日ごとに、各王の前で裁きを受けると説いています。それぞれの担当は下記の通りです。
 初七日=秦広王 二七日(十四日目)=初江王 三七日(二十一日目)=宋帝王 四七日(二十八日目)=五官王 五七日(三十五日目)=閻魔王 六七日(四十二日目)=変成王 七七日(四十九日目)=泰山王
 裁きが決定する四十九日目を満中陰といい、死出の旅が終わり、忌明となります。その後、百ヶ日(百日目)に平等王、一周忌(一年後)に都市王、三回忌(二年後)に五道天輪王によって追加の裁判が行われます。各裁判の日にあわせ、罪を軽くすることを願って、仏事供養が行われます。
 堂内には、ほかに三途の川のほとりで亡くなった人から衣服をはぎとる奪衣婆の木像も納められています。
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寺 名:仏生山・来迎院・法然寺【仁王門から般若台】
本 尊:阿弥陀如来立像 伝 法然作
開 基:松平頼重

創 建:寛文8年(1668)
宗 派:浄土宗
札 所:法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天。
住 所:香川県高松市仏生山町字仏生山甲3215番地
マピオンマップ↓↓↓↓
マップコード: 60 365 328*20
電 話:087-889-0406
文化財:
資 料:現地説明板、Wikipediaなど、
駐車場:無料
撮影日:2018年12月10日
近隣施設:仏生山公園平池

仁王門(二王門)
 仁王門は、主柱四本の前後に控柱四本を配する八脚門という形式になっています。門の両脇に仏や信者を敵から護る役目を果たす役目を仁王像が安置されています。
 仁王は金剛力士とも呼ばれ、口を開けた「阿形」と口を閉じた「吽形」で一対となっています。平成四年に行われた仁王像の修理によって、像内に銘文が残されていること、納入品があることなどが確認されました。これにより仁王像は、京都の大仏師赤尾兵部らによって延宝二年(1674)に造られたことが判明しました。
 仁王門と次の二尊堂の間には、韓門(四天門とも呼ぶ)と四天王堂がありましたが、今は
その礎石のみが遺っています。四天王堂内に安置されていた四天王像は、現在三仏堂におさめられています。【現地説明板より】
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文殊楼
 文殊楼の名前は、下層正面の天井近くに仏壇をつくって、仏教の智を象徴する文殊菩薩の小さな像をまつっていたことに由来します。二層の建物の上層部分に梵鐘が吊ってあることから「鐘楼門」とも呼ばれています。
 梵鐘は創建当初の鐘が傷んだため、江戸時代に一度造り直されています。その後、第二次世界大戦中の金属供出に提供されたたま、昭和二十四年(1949)、改めて梵鐘が鋳造され、現在も使用されています。鐘の設計は梵鐘研究の第一人者であった青木平八郎博士が描く「平和の鳩」、歌人吉井勇の歌が刻まれています。
 下層の両脇に設けられた金剛柵の中には、仏教を守護する梵天・帝釈天の立像が納められています。【現地説明板より】
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韓門(四天門とも呼ぶ)と四天王堂跡
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来迎堂
 来迎堂は、屋根の下に裳階とyobareru飾り屋根を付けた建築様式になっています。柱や横木には禅宗の様式が取り入れられています。
 堂内正面の壁の中央には、雲に乗って飛来する阿弥陀如来立像が配されています。そのまわりには、如来の両脇に従う観音・勢至菩薩のほか、楽器をかなでる菩薩など二十五菩薩が一面に配されています。これは仏が浄土から迎えに来る「來迎」の姿を表現しています。彫刻を用いて来迎の様子を表す例は少なく、大変に貴重です。天井の龍の図、柱の種塗りの跡、極彩色が残る飾りなど、堂内は厳かで華やかな空間であったことが忍ばれます。
 如来と二十五菩薩は東を向いていますので、西に向かってきた参拝者は、堂内で菩薩たちと向きあうかたちになります。西方から飛来した如来に迎えられ極楽浄土へ旅立つ場面が表れているのです。
 堂内は、毎年八月十六日と十二月三十一日の夕刻、万燈会にあわせて公開されています。【現地説明板より】
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振り返って
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般若台
 般若台は、高松十二万石を治めた藩主高松松平家の墓所です。「般若」とは仏法の本当の姿をつかむ知性のはたらきを意味する仏教上の言葉です。
 来迎堂の真裏にあたる場所に、初代高松藩主松平頼重の墓所が設けられています。以下、三代頼豊、四代頼桓(よりたけ)、五代頼恭(よりたか)、六代頼真(よりざね)、七代頼起(よりおき)、八代頼儀(よりのり)、十一代頼聰(よりとし)の藩主とその室、明治以降の松平家当主とその夫人をはじめ、松平家の類縁の人々の眠る場所となっています。尚、二代頼常、九代頼恕(よりひろ)の墓所はさぬき市の霊芝寺に、十代頼胤(よりたね)の墓所は東京の伝通院にあります。墓塔の数は二百二十二基で、これだけの墓塔が建つ大名墓所は全国でも数少ないものです。
 法然寺を建てた初代頼重は、般若台以外の境内地に貴賤を問わず墓地を設けることを許しており、藩主の墓所と一般の墓所が同じ寺の境内に存在するという珍しい空間となっています。【現地説明板より】
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眺望(平池)
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眺望(前池と日山)
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五重塔と仁王門 奥は前池と日山
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【法然寺五重塔】
 仏生山・来迎院・法然寺(ほうねんじ)は、香川県高松市にある浄土宗の寺院。本尊は法然作と伝わる阿弥陀如来立像。法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天。

 法然寺は、建永二年(1207)讃岐に流された浄土宗開基 法然上人ゆかりの生福寺(旧高篠村、現満濃町)を高松藩初代藩主松平頼重公が現在地の雄山に松平家菩提寺として再興したお寺である。寛文八年(1668)以前からあった「ちきり神社」を現在の雌山に移してから三年余の歳月を要して多くの門と堂を完成させた。
 建物は、当時建てられたものも多く残り、江戸時代初期の建物群としては、県下屈指のものである。
 寺域内の雄山山頂の般若台には、初代頼重、三代頼豊、四代頼桓、五代頼恭、六代頼真、七代頼起、八代頼儀、十一代頼聡、の歴代藩主をはじめ、松平家一族の基碑が建ち並び荘厳な雰囲気を醸しだしているようです。
 法然寺の門は、総門、黒門、仁王門、四天王門跡、鐘楼門、涅槃堂門、本堂門、堂宇としては、本堂、書院、納骨堂、三仏堂(涅槃堂)、大師堂、二尊堂、来迎堂、五重塔、その他がある。
 観世音功徳図(明治34年3月27日指定=絵画)、十王像(明治34年3月27日指定=絵画)、源氏物語図(明治34年3月27日指定=絵画)、後深草天皇宸翰御消息(昭和35年6月9日指定=書跡)などの国指定の重要文化財がある。県指定文化財は、木造阿弥陀如来坐像=彫刻、木造釈迦如来坐像=彫刻、木造弥勒菩薩坐像=彫刻もある。
 前回法然寺記事(2009年5月5日)2008年5月23日撮影
 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/26375445.html
 写真は、2011年7月5日撮影
 場所は、ワイワイマップにスポット投稿します。 

 <><>生福寺
 高松藩初代藩主松平頼重が、天正年間の長宗我部の兵乱で荒れ果てていた。讃岐に流された法然上人開基の生福寺(那珂郡小松庄・現仲多度郡満濃町)がで荒廃しているのを憂い、寛文十年、生福寺を松平家の菩提寺として香川郡百相郷(現在地)に3年余の歳月を要し移転・建立した。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松藩主松平家の菩提寺とした。仏生山(ぶっしょうざん)来迎院(らいごういん)法然寺と改号
 法然上人所縁の西念寺
http://blogs.yahoo.co.jp/sanukimesatobuttestyle/24080759.html

 総門
 前山坂を登ると東の入口の総門があります。南側には番所があって、ここを通って法然寺の参詣出来るのは侍や町年寄など身分の高い人だけでした。一般の人は裏門からの参詣を常としていた。明治維新後は総じて自由に往来をが許された。
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 仁王門
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 本堂
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 三仏堂(涅槃堂)
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 大師堂
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  五重塔
 頼重公にも、生前叶わなかった願いがありました。自らが開基となり建立した仏生山の山頂から「仏舎利」が見出され、これを安置すべき「五重塔」を建立するという願いでした。残された絵図面には、その予定地がはっきりと印されています。
 五重塔(平成二十三年一月二十五日完成)
 高松城から法然寺までをお成り街道と呼ばれ、門前町仏生山は古い商家が今も残っています。
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ワイワイマップの見方
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<><>仏生山来迎院・法然寺<><>
 仏生山来迎院 法然寺は香川県高松市仏生山町にあります。仏生山町はお寺の名前から付いた町名です。法然寺の門前町で高松藩松平家の菩提寺です。本堂には釈迦涅槃像が祭られている。通常は非公開で有料で本堂に入ることができるようです。

 法然寺には昭和40年3月に社会福祉法人竜雲学園を設立して以来、40年にわたり竜雲少年農場をはじめ、各種の厚生施設や授産施設の運営に取り組んでいます。
 竜雲あけぼの学園は、法然寺の境内の一角にあります。 約30名の利用者が各々の授産活動に励みながら、自立自活の道を探っています。授産課目として花卉栽培と製麺、その販売を取り入れています。
 花卉園花班は、20種以上の花を栽培し、法然寺広庭にある販売店、フロレリア、琴電仏生山駅、県社会福祉協議会・福祉の店、各種バザー等で販売し、花持ちの良さで好評を得ています。
 製麺班は、法人内施設の給食用とフロレリア内の「竜雲うどん」で販売する手打ちうどんを作り、フロレリアは地域の人々の昼食の場と憩いの場になっています。
 (記事は法然寺ホームページより転載させて頂きました。)

 大名行列などのイベントが毎年琴電仏生山駅前から法然寺の間で行われている。
 法然寺の行事は下記アドレスにて確認ください。
 http://www.geocities.jp/raigouin/

 法然寺は四国新聞社選定讃岐百景に仏生山公園と共に選定されています。

 My blog 平池も↓↓↓↓を参照ください。
 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/17038372.html
 My blog 仏生山公園も↓↓↓↓を参照ください。
 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/14730134.html

  仁王門
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  三仏堂(涅槃堂)
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  本堂
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  鐘楼門
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 写真は2008年5月23日撮影
 

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