四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の寺院

寺 名:天津山・成土院・弥陀寺
本 尊:阿弥陀如来(明和三年)

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開 基:永禄年間(伝)
創 建:
宗 派:高野山真言宗
札 所:
住 所:徳島県板野郡上板町瀬部1248
電 話:088-694-2958
由 緒
 『阿波志』の名西郡仏刹には、次のように記載されている。「名西郡瀬部村に在り、山名天津、阿弥陀像を安す荘厳院に隷す。」とある。
 本寺は、もと中井ノ内の月輪神社の附近に在ったが、天正年間土佐の長宗我部元親の兵火に罹って堂宇悉く焼失した。その後、寛永十五年(1638)現在地に移転建築され、さらに、寛政二年(1790)に再建された。その後平成五年(1993)現在の本堂に至っております。
 寺宝は、涅槃図(寛政六年)、薬師如来像(天保十二年)
資料等:現地説明版、Googlemap、など
駐車場:無料
撮影日:2022年11月17日

寺 名:一猷山・医王乗院・萬福寺
本 尊:千手観世音菩薩

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開 基:
創 建:
宗 派:高野山真言宗
札 所:阿波北嶺薬師第三番霊場
住 所:徳島県板野郡上板町高瀬570−1
電 話:088-694-2889
由 緒
 天正十年長宗我部元親の兵火に遇い堂塔焼失せりと伝え聞く。人皇百十三代の帝東山天皇の御宇龍岫上人出でて当山を再興し中興第一世となる。
 昭和六十年二月十九日起工。同年十一月十九日落成。続いて諸堂の改修境内の整備をする。
資料等:Wikipedia、現地説明石版、Googlemap、など
駐車場:無料
撮影日:2022年12月14日

寺 名:蓮華山・延命院・寳蔵寺
本 尊:阿弥陀如来

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開 基:伝明等上人
創 建:
宗 派:高野山真言宗
札 所:
住 所:徳島県板野郡上板町七條大道ノ上1
電 話:088-694-4226
由 緒
 寺歴によれば、天正八年(1580)七條城主七條兼仲の菩提寺として、明等上人により開基されたといわれ、寺は往古七条栗飯久保にあり、境内八丁四面の巨刹であったと伝えられる。
 天正十年(1582)土佐の大名長宗我部元親の阿波侵攻の兵乱に罹り堂宇の全てを焼失し、明等上人によって再建されたが、享保三年(1718)火災の為焼失した。
 その後、六十余年間は仮寓であったと推測する。古来寺の所在した栗飯久保地帯は宮川内谷川の氾濫により、度々水害を受けた地帯であり、この難を避けるため天明二年(1782)祐慶上人の時代に、現在地へ移転し新築されたが、嘉永二年(1849)再び大火にあい焼失した。
 信徒七條仁界の在、七條鹿蔵氏などの尽力を得、二年後の嘉永四年(1851)に再建され、今日に至ったが、本堂の老朽化著しく檀家中の総意を得、本堂再建の大事業を成就した。
資料等:Wikipedia、現地石碑、Googlemap、など
駐車場:無料
撮影日:2022年11月17日

寺 名:岩屋山・薬師寺
本 尊:薬師如来
開 基:(伝)琳猷
創 建:(伝)平安時代末期
宗 派:真言宗豊山派
札 所:新四国曼荼羅霊場五十九番札所
住 所:高知県高知市介良丙1832

電 話:088-695-2215
由 緒
 下記ページ参照
駐車場:無料
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駐車場:無料(麓に5~6台)
撮影日:2021年2月5日

寺 名:円鏡山・大智院・能仁寺
本 尊:阿弥陀如来
開 基:順諦大和尚
創 建:慶長10年(1605)
宗 派:浄土宗
札 所:
住 所:愛媛県伊予郡松前町筒井315

電 話:089-984-5008
由 緒
 64年を経て火災にあったが、天和2年(1682)諦誉和尚が再建し、寛政8年(1796)憫誉和尚が再度再建した。天保3年(1832)には長誉和尚が山門を改築した。
 現在の本堂は、昭和28年 (1953)12月31日に再建された。 本尊は阿弥陀如来である 。 寺宝には、霊巌和尚(知恩院第32世)自筆の「直富笈」• 明治2年(1896)宗門帳がある 。境内には、毎年旧暦正月16日頃に咲く「雪勝の桜」(日清の役の大本営に一枝を送ったところ、日本軍が連戦連勝したことから、この名に改められた)がある 。またべえまた後藤又兵衛夫妻の供養五輪塔のほか、俳人野沢喜久三郎、教育者赤星大龍の碑、及び水利土木建設に力を注いだ西谷広助の頌徳碑がある 。 
資料等:伊予の隅々こたろう博学研究所様、松前町教育委員会pdf、
駐車場:無料
撮影日:2020年10月21日
近隣施設:


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後藤又兵衛の墓 
 筒井の大智院の門をくぐると、左手に二基の五輪の塔がある。一基は後藤又兵衛基次、もう一基はその妻の墓といわれる。当時の日記によると又兵衛は、元和元年、豊臣氏が滅んだ後、落武者となり旧友の松山城主、加藤嘉明を頼って、伊予の国にやってきた。当時、徳川家では、又兵衛の捜索が厳しく、そのため名を弟の市郎右衛門と偽り難をのがれ、寛永11年死に至るまで松前、筒井に住んだ。又兵衛は在世中、農業奨励、荒地の開墾など、地方農業に貢献し、後藤新田、後藤の堰など事跡が多く残っている。

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雪勝の桜
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