四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国てくてく

【うだつの町並み】
 うだつの町並み 徳島県美馬市脇町 「重要伝統的建造物群保存地区」昭和63年(1988)12月16日選定 日本の道百選 
 美馬郡岩倉(現在の美馬市脇町)は藍(タデ科植物)の栽培が盛んで繁栄した町です。染料に加工され船で吉野川を利用して運搬していたようです。(藍の生産は後に吉野川流域に広がる。)

 東西に通じるメインの道路の長さは約430m、指定地区の面積は5.3ha、伝統的建造物は85棟、環境物件(石垣や井戸等)65件、修景物件(母屋、塀等)94件です。(伝統的建造物は88棟あったが、建物の劣化、倒壊により3棟減となりました。)

 うだつ(卯建・宇立)は、日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。
 町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事で燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになる。
 「うだつが上がる」ということは富の象徴であり、脇町に残る「うだつの町並み」は当時の繁栄を物語っています。

 駐車場:道の駅「藍ランドうだつ」を利用
 周辺施設 美馬市郷土資料館・吉田家住宅(有料)・オデオン座(有料)・道の駅「藍ランドうだつ」など
 文は、美馬市観光ページ&Wikipediaなどより転載しました。
 写真は2012年11月8日撮影

 うだつ
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 井戸
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 オデオン座
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 道の駅へ
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【「おはなはん通り」と「大洲神社」】
 おはなはん通りは愛媛県大洲市大洲の東端、肱川に近い一角に、明治から大正時代に建てられた。武家屋敷と養蚕が盛んだった時代の名残である土蔵が並ぶ風情ある通りの事。昭和41(1966)に放映されたNHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」の舞台になったことからこの名が付いた。
 明治の家並みは、商家と武家屋敷の境目ともいえる通りで、好対照の風景が見られます。北側の蔵並びは商屋のもので、南側は武家屋敷でした。また、この通りは、商屋と武家屋敷の境界にあたるためと、城より臥龍の地にある藩主の別邸へのお成道とし使用されていたため他の通りよりも広くなっていると言われており、他にも商屋の火事が武家屋敷に飛び火しないように配慮していたとも考えられています。
 明治時代に養蚕や製糸で栄えた家並みには、腰板張りの土蔵やなまこ壁が随所に残っています。この通りには大洲神社に続く石段があり、少し登ると、昭和燈や水平に並んだ家屋の屋根など、伊予の小京都の風情が感じられる町並みを見渡すことができます。

 大洲神社は愛媛県大洲市大洲ニ鎮座している。本殿様式 流造(桧皮葺) 主祭神 大国主命(おほくにぬしのみこと)
 大洲神社は大洲城の東方に位置し小高い社が商売繁盛の神・家内安全の神・安産の神・大漁満足の神としられた神社です。
 宇都宮家譜によると、元弘元年(1331)宇都宮豊房公が大洲城を築きし時、城内総鎮守神として下野國二荒山(ふたちやま)神社より勧請し、太郎宮として斎祭される。戸田・藤堂・脇坂を經、元和3年加藤貞泰城主となり、先例により祈願所と定めて崇敬し、以下歴代の藩主の崇敬篤く境内地・社殿の造営・修復・祭器具等の寄進がたびたびされ、旧縣社に列せられる。 元徳3年(1331)宇都宮豊房が大洲城を築城した際に、城内総鎮守の神として下野国二荒山神社より勧請し、太郎宮と称した。大正3年に久米神社、恵比須神社を合祀して「大洲神社」と改称した。
 大洲神社はドラマ「東京ラブストーリー」のロケ地
 0893-24-3683
 場所は、ワイワイマップにスポット投稿します。

 お花はん通り
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 明治通り 昭和塔(昭和3年に建てられた高さ12m程の灯籠)
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 拝殿
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 本殿
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 境内(能舞台?)
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 木豇豆(きささげ・きささぎ)ノウゼンカズラ科キササゲ属の落葉高木
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 階段上の鳥居からの昭和塔
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ワイワイマップの見方
yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→「おはなはん」検索→《歴史的縁の地、文化財、資料館などのMAP》を スクロールで選定する。

【豊島・片山邸と甲生露地裏】
 <>片山邸<> 香川県土庄町指定 有形民俗文化財(昭和51年4月15日指定)
 江戸時代後期に建てられた片山邸は、欅(けやき)、檜(ひのき)、栂(つが)などの良材による豪壮な母屋を中心に、乾(北西)に入念な造作による茶室、土蔵、離れなどを立て回し、卯(東)には納屋、巽(南東)には入母屋造りの長屋門を配置するという家相普請にのっとった地方富豪の代表的な建物である。また、大型石を配した枯山水の庭には、県下有数の巨樹として名高い「香川県指定天然記念物」の「蘇鉄」が雄大な枝幹を広げ、幕末から明治にかけて西日本屈指の材木商であった片山家の隆盛を今に伝えている。(未公開)
 片山邸は香川県小豆郡土庄町豊島の甲生地区に有ります。甲生地区には、古井戸、地蔵、石灯籠が路地のあっちこっちに残されている。信仰心が厚い土地柄なんでしょう。
 文は現地説明板などより転載しました。
 写真は2010年9月22日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

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ワイワイマップの見方
yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→「文化財」検索→《歴史的縁の地、文化財、資料館などのMAP》を スクロールで選定する。

男木島港と石垣集落と猫
 男木島は、高松市の北7.5km、女木島の北1kmの島。島には、平地が少なっかた。南西部の斜面に階段状に石垣を築いた集落がつくられている。
 住民の職業は、魚業が主力であった。漁獲量の減少と安価で漁業では生活が成り立たず若者は、島外に出たまま帰ってくる事もなく高齢化が進んでいます。空き家の増加が目立つが、昭和32年の映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台にもなった男木島灯台は、御影石で出来た美しい灯台で、その周辺は、この時期水仙の香りが漂っている美しで島です。(源平合戦で那須与一が射た扇が流れ着いたことから「おぎ(おおぎ)」という島名がつけられたともいう。)
 ※男木島データー:所在地=香川県高松市男木島町 面積=1.37?  周囲=4.7km  標高=コミ山213m  世帯数=121世帯(2008.4.1) 人口=207人(2008.4.1)

 瀬戸内国際芸術祭2010 会場:小豆島・豊島・直島・女木島・男木島・大島・犬島(岡山県)と高松サンポート地区の内、男木島も会場の一ヶ所となって2010年7月には始まります。(男木島港で会場の工事中) 高齢化が進んだ為空き家が多く、この空き家も会場になるようです。

 アクセス:高松サンポート第1桟橋より雌雄島海運フェリーで、女木島・男木島行きに乗り男木島港で下船。豊玉姫神社鳥居を潜って行くと左右に石垣の集落です。石垣は、自然石で無く加工した石垣です。記事には、高松市H.P.などを参照しました。
 写真は、2010年2月5日撮影

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 帰りの船の中から
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 日向ぼっこの猫
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<><>国府庁跡地と崇徳上皇<><>
  讃岐国庁所在推定跡
 綾北平野の南限にあって、三方を山で囲まれたこの地域は、大化の改新による律令制度によって讃岐国府(今の県庁と同じ)の置かれたところである。
 附近には、垣ノ内(国府の区域)・帳次(諸帳簿を扱った役所)・状次(書状を扱った役所)・正倉(国庁の倉)・印鑰(国庁の印鑑や鍵の保管所)・聖堂(学問所)などの地名があり、名国司菅原道真の事跡とともに讃岐国庁の姿を偲ばせ、木ノ丸殿(擬古堂)・内裏泉・盌塚・菊塚など保元の乱によって讃岐に流された崇徳天皇の悲しい遺跡は、保元の昔を物語る。また白鳳期建立の開法寺の塔礎石や巨石墳新宮古墳・式内大社城山神社など古代~中世の遺構も多く、ここに訪れる人々を古代讃岐のロマンへと誘う。

  鼓岡神社由緒
 当社地は保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、長寛2年(1164年)8月26日崩御されるまでの6年余り仙居あそばされた聖蹟である。建久2年(1191年後白河上皇近侍・阿闍梨章実、木の丸殿を白峰御陵に移し跡地に之に代るべき祠を建立し上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の草創と伝わる。)中略 境内には木の丸殿・擬古堂・観音堂・杜鵑塚・鼓岡行宮旧址碑、鼓岡文庫、などがあり附近には内裏泉、菊塚、盌塚などの遺跡がある。

  内裏泉
 崇徳上皇は長寛2年(1164年)に崩御されるまでの6年間は、府中鼓ヶ岡の木の丸殿にお住まいになられました。
 このいずみはこの頃に上皇の飲用に供された泉で、内裏泉と呼ばれ、地形上も谷筋に位置していることもあり、決して大旱魃にも枯れない泉であると伝えられています。(現在は石枠が原型をとどめている。)
 ※鼓岡神社右側の民家の裏側にある。

  河知駅と堺石(甲知駅)
 645年大化の改新により、中央より各地に向けて七つの官道が整備されました。この官道は中央と地方との連絡ををとるための重要な道であり、馬を利用した駅伝の制によって連絡がとられていました。
 讃岐は南海道に属し六駅が設置されましたが、府中の石井には河知駅が置かれました。駅には常に四頭の馬が置かれ、官吏による情報の伝達が行われたと伝えられています。
 堺石(国分石・中心石)=讃岐の中央の標石として置かれたと伝えられています。現在の堺石は小学校の校庭に移転して保存しています。(原形とは異なる。)
 記事は現地説明板より抜粋しました。
 写真は2009年11月2日・12月9日撮影

 今回歩く所
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 国府跡
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 鼓岡神社
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 擬古堂
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 内裏泉
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 堺石
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