神社名:石岡(いわおか)神社
創 建:
創 基:
社 格:県社
住 所:愛媛県西条市氷見1345-1
電 話:0897-57-9990
由緒等
石岡神社の起源は、神功皇后が三韓から御凱旋の際、武内宿禰と皇子を奉じてこの岡に上陸せられ、天神地祇を奉斎し給うたので、清和天皇の貞観元年(859)大分県の宇佐神宮より勧請奉祀したと伝えられている。
延久五年(1073)八月十五日 後冷泉院の御違勅によって国司源頼義が国中十八社準八幡宮建立の時、その十八社に加列し再興せられた。以後、源氏の隆昌と共に当社が繁栄を加えたことは、義経宝剣の寄進状が現存するところからあきらかである。
その後、元亀、天正の頃(1573~1586)数度の兵火におうて殿宇宝蔵悉く烏有に帰し、数多の神人も離散したが長職(紀姓玉井氏)一人、神体を守護し奉り、更に後、玉井民部忠良がこれを憂えて田地に仮殿を営み御神体を鎮め奉った。
文禄年間(1592~1594)に至って神殿を改修したが、未だ全きを得ないまま藩政時代に入り、松平頼純卿が西條に封じられ、八幡宮が源氏の氏神であった為、寛文十年(1670)伊曾乃、一宮、黒嶋の三社と共に藩社とせられ、以後累代深く藩主の尊崇をうけるようになってきた。
かくて、石岡神社にも再び興隆の春が訪れ元禄二年(1689)神主玉井石見守、同対馬守が大庄屋高橋立見(古町)をはじめ氷見、橘の氏子の絶大な協力と藩の加護を得て起工し、ほぼ現在の体裁をととのえるに至った。
明治五年(1872)郷社に列し、同十七年(1884)県社昇格したが、終戦と同時に社格はなくなった。
終戦直後の昭和二十一年、南海地震で拝殿が倒壊したが、氏子達は総力をあげて復旧に邁進し、現在の拝殿が完成した。
西条祭りは伊曽乃(いその)神社、嘉母(かも)神社、石岡(いわおか)神社、飯積(いいづみ)神社の4つの神社の秋の例祭の総称。
石岡の地名の由来
橘の島にしあれば河遠み曝さで逢いしわが下衣
(原文 橘之|嶋尓之居者|河遠|不曝縫之|吾下衣=万葉集1315番)
(原文 橘之|嶋尓之居者|河遠|不曝縫之|吾下衣=万葉集1315番)
上記の歌はおよそ千七百年程前に神功皇后がこの地、橘島に上陸された時に詠まれた歌と伝えられている。皇后は新羅(朝鮮)征討の祝いをこの地で行ったとされこの地が祝いが岡と言われ、やがて石岡(いわおか)となった。
資料等:現地説明版、冊子などより
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