お堂名:多肥観音堂(円成庵)
開 基:
創 建:
宗 派:
札 所:
住 所:香川県高松市多肥上町886−1
電 話:
由 緒
「多肥の観音さん」として昔から親しまれてきたが、その容姿から「片足観音さん」とか、「六字観音」ともいって、土地の人々もいささか、その異様な姿に、畏敬の念をもって崇拝してきたものである。
『翁塸夜話』には、六字明王として次のように述べている。「六字明王は観音の化身也、故に俗称多肥観音という。北條郡高屋に神谷兵庫忠資なる者あり、細川氏に属して功あり、賞として乃生、木沢の二邑を食せらる。是に於いて乃生村に移り遂に氏となす。後多肥郷を加封される即ち乃生、木沢、多肥の三邑を食む、世々六字明王を尊信して、其の像を安置し、東光坊をして奉守せしむ、曾孫乃生村孫兵衛元忠にいたりて、多肥に遷り、一城を営構して、これに居れり、然して亦、明王を奉じて之に従う東光坊をして守らしむこと故の如し・・・・ 世俗之を称して〔多肥観音〕と云う。天正中乃生村氏邑を喪うも子孫世々其墟に住む。頼景の後農となる。重兵衛、太郎左衛門これなり、」
観音堂の創建は、文禄三午年小僧都宥仁六字法十万座修 建立と記録に見えている。文禄三年(1594)の建立は今の地でなく、高木城内に祀ったものと推測される。現在の位置に創建したのが、実は慶長十八年であるとするのが適当であろう。
観音堂は乃生村氏の持仏であるから先住地の高屋や乃生を経て多肥に移されたことは明らかである。孫兵衛元忠の四代目重兵衛の時に城跡の地から観音堂の北側に移って、乃生村の姓を喜多氏と改め、六字明王を護持し続けた。甚六家が断絶してから後、田地一町九畝を観音田と、菩提寺行徳院に寄進した。この観音田の徳米で代々観音堂の営繕や堂の維持管理を行って、先祖の供養費に充てていた。
観音堂の庵号「円成庵」は文禄の建立時の寺僧円成師が隠居家に当て、それを円成庵と号したことから始まっている。時代は慶長年中である。
ーー木造六字尊立像ーー
像高=197.0㎝ 頂上より顎=36.0㎝ 髭際より顎=18.0㎝ 面幅=19.0㎝ 耳張=21.0㎝
面奥=22.0㎝ 肘張=48.0㎝ 体奥=18.0㎝
面奥=22.0㎝ 肘張=48.0㎝ 体奥=18.0㎝
資料等:多肥村郷土史など
駐車場:無料
撮影日:2024年5月2日
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