お堂名:熊谷堂(熊谷入道住居跡)
創 建:
宗 派:
札 所:
住 所:香川県高松市香南町西庄
電 話:
由 緒
西庄字西ノ原の井上家の西隣に熊谷直美が住んでいたという跡地がある。今そこには多くの信者によりお堂が建てられ、丁重に祀られている。
ここに掲額されている『熊谷入道遺跡略縁起』は次の通りである。
〔抑熊谷法力房蓮生法師直実は武蔵の国の住人熊谷の地頭、平の直貞の三男にして、平治・治承・寿永の頃、所々の戦に武勇を顕し、而て元歴元年(1184)三月六日九郎半官義経は鷲尾経春を先導として、鵯越から一の谷へ逆落しに攻めかけ、要害堅固を恃んでいた平家、計らざる不意打ちに狼狽して舟に乗り海に遁れんと汀に落ち行く。熊谷は今日も好き敵御座れと東西を窺うていた折、無官の大夫敦盛卿ただ一騎中納言知盛卿の舟へと志し落ちんとする所、日本一の剛の者熊谷次郎直美と名を呼びかけて取り組めば、天晴剛の者と思い見れば十六七才の若年者なり。さすが熊谷も思わず涙を流し、あらあさましや、倅小次郎と同年なるか、義理と情に挟まれた。今や陸には源氏の将兵充ち満ちて沖ものがれ難しとて首打てば、剛の者熊谷も思わず有為転変無常を感じ、所領と妻子を捨て都吉水に登り、法然房源空上人の弟子となる。 弥陀の本願の妙旨を聞きてより無二の信者となり、殊に不背柴法の願を立てその後吾妻下りの砌には西方後向も事を恐れ馬を逆に乗りけるが「浄土にも剛の者をや沙汰すらん西に向かひて後を見せねば」と詠わせし程の信念堅かりしを以て上人常に坂東が阿弥陀仏と仰せられける。 平家の軍は讃岐屋島に拠る。源氏は之攻める敵、味方の将兵戦死者多し、弥陀の御本尊を戴いた熊谷はとる物もとりあへず屋島にこられた。特に源氏の軍は兵器・軍馬の集散地、千疋・池西に来る。この地を昔より老人の言い伝えによれば、熊谷屋敷と云う伝えてあり、その後、この地に人永住できず。 老齢者に聞けば、天保七年には嘉吉、安政五年山中冬吉、明治五年小原宇一、明治三十年小原ツイ、明治大正にかけて由良半造、昭和年間井上氏この地を田畑に改め御名号のあの所が熊谷屋敷その南側の土地が堂の前と云う所、この所を綾南六ヶ村及び池西・川岡・円座の一味同行相計り、このたび御堂を建立して信念堅くし、熊谷蓮生房の史跡を拝し後の世のため古きを尋ね今を知り皆共々に史跡を偲びましょう。 昭和四十四年秋吉日〕
なお、熊谷次郎直実の讃岐に関する事柄については、『全讃史』にも次のような記録が記載されいるので、このあたりにこられたことは事実であろう。
承元元年(1207)二月、法然上人の此の国に流謫されたとき、西念寺に宿りをされた。蓮生坊も従い来って此の処にいた。然るに五年赦免に遇って京に帰られ、蓮生も従い帰って死んだ、思うに里人がその死を聞いてこの墓を作ったのであろう。
念仏修行の地
資料等:「綾南町史」など
駐車場:無
撮影日:2023年5月1日
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