椋園先生遺愛之碑
【天保11年(1840)~大正4年(1915)5月29日】
業 績:高松市初代市長 香川県史編纂
出身地:香川県高松市
住 所:香川県高松市番町1丁目11
場 所:高松中央公園南東角

解 説
 椋園先生は、本名を赤松 渡と言った。赤松家は、代々医術をもって高松藩に仕えていた。先生は幼い時から勉強を好み、片山冲堂先生に学んだ。武術も習得したが、槍術が得意であった。家業をついで御殿医に進んだ。明治の初め藩知事のもとで判事を兼務した。松平家十一代頼聰公は先生に文武の才能があるのを知り、御殿医の兼任を解き、専ら政治に当たらせることにした。少参事に選任され、大変感激して精励した。
 先生は香川県、徳島県の会計検査院に奉職、その後、明治二十三年五月五日、初代高松市長に任命された。常に、市民の暮らしを心配し、産業の振興、福祉の充実に努めた。功績は大きく、特に顕著な業績は、高松から脇町までの立派な道路(現在国道百九十三号)を作ったことである。高松港を修築しようとして計画書を完成させたが、市長の任期が満了し、退任した。五十七歳であった。
 先生は各地に出かけて、すぐれた文人と交わり、見聞を広めた。その名声は諸国に広がり、教えを請うものが後を断たず、そのため、養浩塾を開き、優れた人材を輩出した。先生は、世俗の名誉や利益にまったく無関心で、門弟たちの教育に打ち込むこと十年余りに及んだが、病気になり、不帰の人となった。享年七十五歳。
 府中村(香川県坂出市府中町)の信義に厚い門弟たちが相談して、鼓岡顕彰会を作った。旧友、門人は先生を慕い、先生の遺徳を後世に伝えるため、大正六年五月、植田倬にこの文章を書かせ、入谷暘の書による碑を先生のお墓の側に建てることになった。
(注記)
 初代高松市長赤松椋園先生の墓は、三番丁の大本寺境内(現在の四番丁小学校西北端)にあった。復興土地区画整理事業の為、姥ヶ池墓地に移され、この碑もその傍にあったが、昭和六十一年四月、中央公園完成を記念して、此処へ移設した。
 
資 料:現地説明板、
撮影日:2015年2月9日
近隣施設:高松市高松中央公園


561

562