山家公頼の墓(和霊廟)
所在地:愛媛県宇和島市宇和津町一丁目
史跡指定:宇和島市指定史跡=昭和38年(1963)2月11日指定
解説等
宇和島藩伊達秀宗が、宇和郡10万石に封じられ、宇和島(当時板島)に入ったのは元和元年(1615)のことであった。秀宗の父伊達政宗は、家臣の中より力量手腕の秀でた山家清兵衛公頼を総奉行として藩政を委託した。公頼は藩の財政の立て直し、民力の涵養に努めること五年間、大いにその治績を挙げたのであった。
しかし、元和五年(1619)幕府の命による大坂城石垣修理工事問題等を契機として、公頼排祖の空気が高まり、元和六年(1620)六月30日の夜、秀宗の意をうけた武士たちが公頼の邸を襲い、公頼をはじめ、十九歳になる二男治部、十四歳の三男丹治は刃に倒れ、九歳になる四男の美濃は井戸に投げ込まれ、命を落としたと伝えられている。山家邸は今の丸之内和霊神社の地となる。
公頼に日頃から好意を寄せていた人達によって、遺骸は密かに金剛山西の谷に葬られた。後に秀宗も冤罪であったことを認め、領内の庶民も公頼の高徳を慕い、香華の煙が絶えなかったという。現在、おたまや様(和霊廟)として、毎年七月二十九日の祭日には、多くの参拝人で賑わっている。
資料等:現地説明板など、
駐車場:無料(大隆寺駐車場)
マピオンマップ:↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/33.21470020952477,132.5753420406808,19
マップコード↓↓↓↓
176 159 310*38
撮影日:2019年7月10日
近隣施設:大隆寺、和霊神社、宇和津彦神社
所在地:愛媛県宇和島市宇和津町一丁目
史跡指定:宇和島市指定史跡=昭和38年(1963)2月11日指定
解説等
宇和島藩伊達秀宗が、宇和郡10万石に封じられ、宇和島(当時板島)に入ったのは元和元年(1615)のことであった。秀宗の父伊達政宗は、家臣の中より力量手腕の秀でた山家清兵衛公頼を総奉行として藩政を委託した。公頼は藩の財政の立て直し、民力の涵養に努めること五年間、大いにその治績を挙げたのであった。
しかし、元和五年(1619)幕府の命による大坂城石垣修理工事問題等を契機として、公頼排祖の空気が高まり、元和六年(1620)六月30日の夜、秀宗の意をうけた武士たちが公頼の邸を襲い、公頼をはじめ、十九歳になる二男治部、十四歳の三男丹治は刃に倒れ、九歳になる四男の美濃は井戸に投げ込まれ、命を落としたと伝えられている。山家邸は今の丸之内和霊神社の地となる。
公頼に日頃から好意を寄せていた人達によって、遺骸は密かに金剛山西の谷に葬られた。後に秀宗も冤罪であったことを認め、領内の庶民も公頼の高徳を慕い、香華の煙が絶えなかったという。現在、おたまや様(和霊廟)として、毎年七月二十九日の祭日には、多くの参拝人で賑わっている。
資料等:現地説明板など、
駐車場:無料(大隆寺駐車場)
マピオンマップ:↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/33.21470020952477,132.5753420406808,19
マップコード↓↓↓↓
176 159 310*38
撮影日:2019年7月10日
近隣施設:大隆寺、和霊神社、宇和津彦神社
コメント