寺 名:仏生山・来迎院・法然寺【仁王門から般若台】
本 尊:阿弥陀如来立像 伝 法然作
開 基:松平頼重
創 建:寛文8年(1668)
宗 派:浄土宗
札 所:法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天。
住 所:香川県高松市仏生山町字仏生山甲3215番地
マピオンマップ↓↓↓↓
マップコード: 60 365 328*20
電 話:087-889-0406
文化財:
資 料:現地説明板、Wikipediaなど、
駐車場:無料
撮影日:2018年12月10日
仁王門(二王門)
仁王門は、主柱四本の前後に控柱四本を配する八脚門という形式になっています。門の両脇に仏や信者を敵から護る役目を果たす役目を仁王像が安置されています。
仁王は金剛力士とも呼ばれ、口を開けた「阿形」と口を閉じた「吽形」で一対となっています。平成四年に行われた仁王像の修理によって、像内に銘文が残されていること、納入品があることなどが確認されました。これにより仁王像は、京都の大仏師赤尾兵部らによって延宝二年(1674)に造られたことが判明しました。
仁王門と次の二尊堂の間には、韓門(四天門とも呼ぶ)と四天王堂がありましたが、今は
その礎石のみが遺っています。四天王堂内に安置されていた四天王像は、現在三仏堂におさめられています。【現地説明板より】
文殊楼
文殊楼の名前は、下層正面の天井近くに仏壇をつくって、仏教の智を象徴する文殊菩薩の小さな像をまつっていたことに由来します。二層の建物の上層部分に梵鐘が吊ってあることから「鐘楼門」とも呼ばれています。
梵鐘は創建当初の鐘が傷んだため、江戸時代に一度造り直されています。その後、第二次世界大戦中の金属供出に提供されたたま、昭和二十四年(1949)、改めて梵鐘が鋳造され、現在も使用されています。鐘の設計は梵鐘研究の第一人者であった青木平八郎博士が描く「平和の鳩」、歌人吉井勇の歌が刻まれています。
下層の両脇に設けられた金剛柵の中には、仏教を守護する梵天・帝釈天の立像が納められています。【現地説明板より】
韓門(四天門とも呼ぶ)と四天王堂跡
来迎堂
来迎堂は、屋根の下に裳階とyobareru飾り屋根を付けた建築様式になっています。柱や横木には禅宗の様式が取り入れられています。
堂内正面の壁の中央には、雲に乗って飛来する阿弥陀如来立像が配されています。そのまわりには、如来の両脇に従う観音・勢至菩薩のほか、楽器をかなでる菩薩など二十五菩薩が一面に配されています。これは仏が浄土から迎えに来る「來迎」の姿を表現しています。彫刻を用いて来迎の様子を表す例は少なく、大変に貴重です。天井の龍の図、柱の種塗りの跡、極彩色が残る飾りなど、堂内は厳かで華やかな空間であったことが忍ばれます。
如来と二十五菩薩は東を向いていますので、西に向かってきた参拝者は、堂内で菩薩たちと向きあうかたちになります。西方から飛来した如来に迎えられ極楽浄土へ旅立つ場面が表れているのです。
堂内は、毎年八月十六日と十二月三十一日の夕刻、万燈会にあわせて公開されています。【現地説明板より】
振り返って
般若台
般若台は、高松十二万石を治めた藩主高松松平家の墓所です。「般若」とは仏法の本当の姿をつかむ知性のはたらきを意味する仏教上の言葉です。
来迎堂の真裏にあたる場所に、初代高松藩主松平頼重の墓所が設けられています。以下、三代頼豊、四代頼桓(よりたけ)、五代頼恭(よりたか)、六代頼真(よりざね)、七代頼起(よりおき)、八代頼儀(よりのり)、十一代頼聰(よりとし)の藩主とその室、明治以降の松平家当主とその夫人をはじめ、松平家の類縁の人々の眠る場所となっています。尚、二代頼常、九代頼恕(よりひろ)の墓所はさぬき市の霊芝寺に、十代頼胤(よりたね)の墓所は東京の伝通院にあります。墓塔の数は二百二十二基で、これだけの墓塔が建つ大名墓所は全国でも数少ないものです。
法然寺を建てた初代頼重は、般若台以外の境内地に貴賤を問わず墓地を設けることを許しており、藩主の墓所と一般の墓所が同じ寺の境内に存在するという珍しい空間となっています。【現地説明板より】
眺望(平池)
眺望(前池と日山)
五重塔と仁王門 奥は前池と日山
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