寺 名:好成山・善応寺
本 尊:釋迦如来
開 基:河野通盛
開 祖:正堂士顕
宗 派:臨済宗東福寺派
札 所:風早西国三十三ヶ所第十四番
住 所:愛媛県松山市善応寺甲428
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電 話:
由 緒
 河野通盛(1364年没)の開基で、通有の末子に生まれ、河野総領家を継いだが、元寇の乱(1331)失脚し、鎌倉建長寺の「南山士雲」をたより、旧勢をを保つことができた。この時、「南山士雲」の恩に報いるため、河野郷土居館を京都東福寺に擬して寺院に改築し、建武二年(1335)に河野一族の氏寺として好成山善応寺を創営した。
 通盛(法名善恵)は、「南山士雲」の法嗣正堂士顕を東予市長福寺から迎え開祖としたが、正堂法嗣の寺として永代住持(住職)を定めた。この後、貞治三年(1364)には、諸山の列(官寺)に加えられた。
 古文書によれば、寺域を「東限鳩谷之透、南限揚岐庵山過山峰之透、西限娑婆山の透、北限土居山尾新宮山」とし、現在の善応寺部落全域にわたり、その面積は六十町歩に及ぶ広大なものであった。
 七堂(仏殿・法堂・僧堂・方丈・庫司・浴室)十三塔頭(通玄庵・萬松院・千手院・養寿院・大崇院・宗玄院・林少院・萬年院・一心庵・見寿庵・明智庵・霊雲庵)を有する大禅刹であった。
 その後、善応寺は代々河野氏の帰依を受け盛観を呈したが、天正十三年(1585)七月河野氏の没落と共に戦火に焼失荒廃した。
 江戸時代中期、善応寺十七世の黙翁士轍によって、将軍「徳川吉宗」の厚遇を受け、明智庵のあとに現在の善応寺を再建した。
解 説
 河野氏は、伊予国第一の大族で、風早郡(現松山市北条)河野郷土居より起こる。
 中世伊予を代表する武士であった河野氏は、河野郷を中心として発展するが、確かな記録では、平安時代の末期から地方豪族として、広く世に知られるようになった。特に源平合戦で活躍した「河野通信」が、確固不動の地位を獲得し、瀬戸内海に面する伊予の実権を掌握した。
 瀬戸内海に突出する高縄半島にある河野氏発祥の地、河野氏の本拠である河野郷土居は、中世伊予の軍事・経済・文化の中心地で、日本の政治と深く係わりあって、波瀾にみちた歴史を生んだところである。
文化財:
資 料:現地石碑など、
撮影日:2017年6月28日

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地蔵堂
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観音堂
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