新川のおとし 
文化財:高知市指定史跡 昭和35年
所在地:高知県高知市春野町森山
場 所:マピオン地図↓↓↓
築造期:承応元年(1648)
解 説
 新川は、承応元年(1648)、野中兼山によって造られました。
 弘岡井筋(ひろおかゆすじ)は、農業面も灌漑用水路としてでなく水運路としても利用されました。
 八田堰が出来るまでは、奥仁淀の木材や薪炭は仁淀川を下り、新居の「甫淵」に運ばれ、そこから太平洋に出て浦戸湾から高知城下に運ばれていたようです。ところが、八田堰は筏越しを作らなかったため、下流への物資は全て弘岡井筋を通らなければなくなりました。弘岡井筋は割合高いところを通ったため、新川の入口に、新川川の流れと高低の差を調整するために「おとし」を造りました。いわばこの「おとし」が水運路のノドとなりました。このため上流からの大きな筏は壊されて「おとし」を降し、物資もそのまま下ることは出来ず、いったん「せんば」に陸揚げされ、新川の者の舟に積み替えられて、吾南の物資と共に高知城下に運ばれました。だから、「おとし」の付近は、上流からの木材や木炭、雑穀、また高知城下や吾南から奥地に運ばれる日用品や雑貨が山と積まれ、これを取り扱う商人や運送業者で大変な賑わいでした。また、上流からの積荷や筏は、下流への運搬は新川の者に譲らねばならなかったのに対し、新川の舟は上流まで自由に登ることができる。
 保護策もとられました。このため元禄の頃には60軒余であった人家も、幕末の頃には、200軒近くとなり、新川は在郷町として繁栄を極めました。「涼月」や「清水」という料亭や、「用石屋」「杉屋」「中島屋」「えびす屋」などの商人の屋号は、大師堂の前の石灯篭の台石に刻まれて、今でも繁栄の姿を見ることが出来ます。
資料等:現地説明板
撮影日:2016年12月20日
近隣施設:涼月橋、大師堂(春野10景)=ポケモン居るよ。

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公園広場=船泊
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石積み突堤の先
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突堤
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栄華の名残?
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