寺 名:慧日山・正宗寺
本 尊:阿弥陀如来
開山開基:正慧坊智空聖人
宗 派:浄土真宗本願寺派
住 所:丸亀市前塩屋町
電 話:0877-22-3402
由 緒:HP参照ください。
解 説
 法然ゆかりの地『櫂掘の井戸』
 鎌倉時代の初め、法然上人は、難しい教義は知らなくても「南無阿弥陀仏」を唱える者は仏の救いが得られるという浄土宗を唱えた。教えが平易であったためか庶民の間に浸透し、たちまち全国に広まった。このため他宗派からねたまれた法然上人は、さらに門人の罪をも蒙り、建永二年(1207)の春、土佐へ流されることになった。
 かねてから法然上人帰依していた関白九條兼実は、七十五歳の上人の身を案じ、自分が管理している塩飽本島へひとまず行ってもらった。塩飽の地頭駿河権守高階保遠の館で過ごした上人は、小松荘(現香川県仲多度郡まんのう町羽間)へ行くためこの地に上陸した。七百七十五年位前の三月も終わりに近かった。
 舟から下りた上人は喉が渇いたので水を飲もうとしたが水がなかった。やまなく上人は舟の櫂で海浜をあちこちと掘った。たまたま1メートルたらず掘ったところに真水が湧き出たので、有り難やと四方を伏し拝み弟子とともに喉を潤した。これを見た里人たちは普通の人ではなかろうと、早速名主の屋敷に上人を招き入れた。その後上人の教えを受けるとともに草庵を建てて逗留を願った。その後、上人は小松荘でしばらく滞在した後、宇多津を経てその年の十二月京都に帰った。
 真水の湧き出た所は櫂堀の井と今に伝えられ、里人の建てた草庵が光明庵の始まりであるという。
 現在、この井戸にはコンクリートの井側が二本あり、その下にある石の所に水面が見える。水面は境内の南を流れる西汐入川の水面とほぼ同じ高さのようである。
 上人はここで次の二首を作ったと伝えられている。
 南無は船阿弥陀の櫂で掘る清水
     末の世までも 仏々と湧く
 有り難く思わば念仏称ふべし
     何ともなくば なほ称ふべし
 井戸の傍らに右の歌を刻んだ石柱と、上人が舟をつないだという「舟つなぎ石」もある。後世の人が上人を偲んで建てたものであるが、供花の絶えることがない。

 即身成仏至道法印
 榎井村(現琴平町)出身(白方=現多度津町ともいう)禅宗の学僧、至道法印が砂中に入り経文を唱えながら往生した(即身成仏)ところでる。
 時は、文化八年(1811)三月五日、至道法印六十九歳であった。近くの老人の口伝えには、十数日にわたり土中から念仏の声がかすかに聞こえていたという。
 中世、山形県の出羽三山において即身成仏をしたところがあったという。讃岐のような温暖な所で、しかも海辺に近い湿潤の地では極めてまれなことである。仏典の奥義を窮め自ら成仏する道を求めた至道法印は、法然上人上陸のこの地こそ仏道修行者の成仏すべき所であり、また霊地であるがため後世発掘されることもなく魂の安住できる場所と考え、海浜に近いこの地をあえて選んだのであろう。
 石仏の背面には「高祖大師即身成仏、依真影如此造者也」とある。真影に依り、とあるので至道法印の石像と思われる。(高祖大師とあるので他の僧かもと考えられるが)
 光明庵の中興といわれた宥授和尚は、至道法印入定の年に財田村(現三豊市財田町)の伊舎那院から光明庵に招かれた僧である。宥授和尚は即身成仏した至道法印の霊を慰めるため石造仏を造りお堂に安置した。数年後、火災によりお堂は焼失したが、石像仏は現在も残り、信者の参拝が絶えることがない。 
文化財:
資 料:県立図書館蔵 直井 武久著「丸亀の歴史散歩」
撮影日:2015年9月2日
近隣施設:中津万像園、丸亀城、

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