風神塚
津野町指定史跡 昭和五十五年二月二十日
所在地:高知県高岡郡津野町高野
この塚は、中平善之進穏敦(やすあつ)の供養塚である。
善之進は、宝永六年(1709)北川村の庄屋「上岡吉右衛門」の長男として生まれた。十五歳で庄屋の代勤をする程の利発者であった。
元文三年(1738)檮原村の庄屋「中平弥左衛門定経」の養子となり庄屋の職を継いだ。その頃土佐藩は財政が苦しく、国産方を置き国産品(茶や楮など)を専売して利益を得ようとした。
津野山郷の御用商人は「蔵屋利左衛門」という貪欲非道の者で専売権を悪用して私腹を肥やすことに終始したため百姓は日に日に貧乏になった。善之進はこの様を見るに忍びなく、津野山九ヶ村の庄屋を集め協議をし、藩に対し百姓の現状を訴え貢物の減免と国産方の配置替えを嘆願したが藩はこの訴えを取り上げないばかりか、このことを不当として弾圧さえ加えようとした。
こうして起こったのが津野山騒動で、善之進は張本人として捕えられ牢に入れられた。善之進が牢屋より蔵屋の非道を強く申し立てたことにより蔵屋と対決させられることになったが、蔵屋は善之進の鋭鋒に罪を逃れがたいことを悟り自殺してしまう。
その結果百姓たちは無罪、老名本はお○おき、庄屋は取締不行き届きのかどで役儀を取り上げられ藩外に追放された。総責任者であった善之進は、宝暦七年(1757)七月二十六日檮原町神在居長野駄馬において打ち首の刑に処せられた。
藩庁は善之進のこれまでの徳政を知り、考えを改め善之進を助けんと急使を走らせたが時既に遅く、神根越まで来たとき斬首された。その時、大時化となり濁流で谷川を渡ることが出来ず使者は引き返したという。この大時化は七日七晩荒れ狂い世間では善之進時化といった。明治十九年(1886)の大時化も彼の霊の祟りであるとして翌二十年津野山郷の人々が集って供養し、その後十年に一回東津野・檮原両町村合同で祭典を行っていた。最近では四年に一回盛大に供養祭が行われている。
平成二十五年三月 津野町教育委員会 説明板より転載しました。
道路向かいにある銅像
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