るり姫伝説 紙芝居
 十六世紀も終わりの頃の話です。
 白滝のすぐ隣、米津(よなず)という所に「滝の城(別名米津城)」がありました。切り立った崖の上にあり、敵にも中々攻めにくいお城でした。
 白滝公園は、城主の津々喜氏の遊園地でもありました。桜のほころぶ頃には、奥方の瑠璃姫は家臣と共に白滝公園によくやった来ては、花見をたのしんだものでした。
 家老の下西左衛門も、分銅のついた鎖を振り回す「乳切木術」という舞を、力強く披露しました。瑠璃姫らは、かっさいをおくり、平和な春の白滝を満喫していました。
 この平和なお城も、「戦国時代」の波が押し寄せてきたのは、それから数年後のことでした。断崖絶壁の上にたてられたお城も、四国一の力を持つ長宗我部氏の前に、簡単に取り囲まれてしまいました。
 しかし、瑠璃姫の娘、八重姫・九重姫は、八双手裏剣の名手。瑠璃姫自身も清流長刀の指南であり、また吹き矢は神技とも言われるほどの腕前でした。
 「殿、瑠璃姫らの見事な吹き矢にて、我が軍も多数の負傷者が出ております。ほとまず退散して、体制を整え直してはいかがでしょか。」
 敵の軍勢は、じりじりと後退し始めました。「もう一息です。すべての吹き矢をここに持ってきなさい。」瑠璃姫の必死の叫び声が、山々に響き渡ります。
 そのときです。一人の侍女が、吹き矢を運びながら、瑠璃姫にこう叫びました。「瑠璃姫様、大変です。これが残りの吹き矢すべてでございます。」吹き矢はもう十数本しかございません。
 「なるほど、瑠璃姫の吹き矢も、これでおしまいか。ものども、もはや、ひるむことはない。かかれ。」、今にも退散しかけていた長宗我部の軍勢も、この侍女の言葉に、たちまち勢いを取り返しました。
 城は、まもなく討ち滅ぼされてしまいました。一方、瑠璃姫らは、やっとのことで、白滝の雌滝の上まで逃げ延びてきました。しかし、背後に、追っ手はなおも近づいてきます。
 「もはや、これまで。」そう悟った瑠璃姫は、八重姫、九重姫を呼び寄せて言いました。「敵にとらえられ、一生辱めを受けるこの尊雄丸が不敏です。私は、この子とともに、この滝より身をなげようと思います。」
 「世に悩める婦人病を治し、子のない婦人には子宝を授けるため、生き延びて、我らが霊を慰めよ。」瑠璃姫は、泣すがる二人の姫を振り払い、尊雄丸と共に滝壺の中に吸い込まれていきました。
 残された姉妹の二人は、瑠璃姫の言いつけに従い、何とか逃げ延び、後に瑠璃姫と尊雄丸の霊を弔う観音様を奉りました。
 それ以来。ここ白滝に住む者は、「瑠璃姫祭り」をして、二人の霊を慰めるようになったのです。
 毎年十一月二十三日に行われるこの「瑠璃姫祭り」は、幼児の無事成長を願う「稚児行列」と雌滝の上から落とす「樽御輿」で有名で、この時期には多くの観光客が訪れます。
 製作 白滝フロンティア会 伝説「女郎が淵」より

るり姫塚の由来
 戦国末期、元亀元年(1571)秋、現在の愛媛県大洲市米津地区にあった米津城(滝ノ城)は、土佐の長宗我部氏による再三の侵攻に奮戦むなしく、ついに落城した。城主の奥方、瑠璃の方は、二歳になる世継ぎ尊雄丸を小脇に抱え、八重姫、九重姫と侍女達を励まし、血路を開いて白滝公園のこの地に辿りついた。
 そこで二人の姫をそば近くに招き「姉妹は後に生き残りて霊を慰め、冥福を祈れかし、世に悩める婦人病をなおし、子なき婦人には子宝を授け得させん」と叫びつ、尊雄丸を抱き六十メートル下の滝つぼへ投身した。残る侍女達も続いて滝つぼへととび込み水死した。今、この滝つぼを「女郎が淵」と称えている。米津城の十六代城主、吉右衛門蔚、藤原行春(津々喜谷遠江守藤原行春)も残る家臣と共に菩提寺である横松山西禅寺(大洲市成)において自刃して果てたと云い伝えられている。当地では、これらが霊を慰めるため、毎年十一月二十三日を祭日とさだめ、るり姫の供養が盛大に行われる。
長浜観光協会(現大洲市長浜支部)
以上、現地説明板より転載しました。

撮影日:2014年11月6日
近郊施設:沖浦観音、不動滝、長浜大橋

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雌滝
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