神社名:大山神社
主祭神:誉田和気命
創 祀:
住 所:香川県さぬき市鶴羽小路
由 緒:津田の石清水神社の旧宮で、仁和年中(885~889)、山城国石清水八幡宮の分霊を大山に勧請し、一郷の総鎮守としたが、後、津田神野の地に遷座し、里人その跡に社殿を造営して、鶴羽八幡宮または大山八幡宮と称え、崇敬して現在にいたっているという。『讃岐国名勝図会』には「当社は津田八幡宮旧地なりとぞ」とある。
解 説:大正四年、御大典記念事業として、地区青年団及び氏子の奉仕により、神苑を造営し、神池を設けて、境内を整備した。その後、昭和四十二年十二月十日、さらに神域の樹木を伐採し、清掃を行って、桜樹四百本(吉野二百、八重二百)を植栽した。社地高燥にして、国道十一号線を隔て播磨灘に面し、絹島・丸亀島を眼下に眺め、遠く淡路島・小豆島を望み得て、眺望きわめて絶佳である。
資料等:香川県立図書館蔵 津田町史(現さぬき市津田町)
文化財等:
その他指定:
近隣施設:津田の松原、道の駅「津田の松原」、大川オアシス、
撮影日:2014年2月21日
場 所:スポットノート『神社祠map/伝説・民話map』に投稿します。
大山八幡御渡所の碑
 当県大川郡鶴羽村鎮座の大山神社は地方有数の旧社にして霊顕新たになるはよく知る所なり。しかるに近時いくたの変遷を経て神域荒廃し社殿甲頽廃往時の名残をとどめず、遺憾の極みなり。之に依り神主本沢福寿氏、時の村長寺村清夫氏ならびに氏子惣代等と協議し弘恢再興の大任を白井新太郎に託さる。
 彼日夜焦慮しついに大阪に上り池田勘七氏に謀る。氏は郷土も出身にて世に聞きゆる篤信家なり、故に直ちに賛同し多大の金額を拠出し、あまつさえ有志の人を語らい惣ち二千余金を得たり。
 かくして大正十年春工事に着手し弊殿、拝殿を修繕し社殿裏に二重の石垣を築き廻り馬場に石垣を畳み、新太郎宝満池を開く、大正十五年十月二日御輿渡御の祭典執行す。是全く江湖の敬神家諸氏新太郎外□□翼讃さられたる基因するもの真に往年を回想し感激実にあらたなるものありというべし 以下略
大山の砂かけダヌキ
 大山神社の境内に一歩足を入れると、たちまち辺りの木々の葉が「ザーザー」とゆれる。木もれ日の光に、丸く太った豆ダヌキのころころと走りぬける姿が見られた。それは人々に神への畏怖と自然の神秘さを教える。里人は拝殿まで通ずる参道の木々の砂をかけながら「なむ大神さま、われらを守り給え」と念ずる。念じながら、まわりの木々に砂をかける。これはいつしか習わしとなり、大山神社の豆ダヌキを里人は砂かけダヌキと呼ぶようになった。その後も大山の里一帯に豆ダヌキが出没し、昭和の初期までその姿があちこち見られたという。
 ある日、桃の節句のおよばれで、帰りの遅くなったヨネさん、、あわてて赤ん坊をおんぶして山道を我が家へと急いでいた。日はとっぷり暮れ、中谷の里を過ぎ大山への山越えの道にさしかかった。木々の間にただ白く続く道を目じるしに歩を急ぐ。すると突然「ザーザー」という音に、ヨネさんはぎょっとなった。音のする方を見ると春がすみの中に浮んだように人の姿がはっきり見える。そして、どんぐりまなこに、にたっと笑った顔。手にはがんじき(熊手)を持ちこくばをかいているのである。ヨネさんは思った。「さては豆ダヌキ。里の衆がいうておった豆ダヌキにちがいない」と。豆ダヌキは化かすというので、背中の赤ん坊をしっかりにぎり、「イトよ、イトよ」と大きな声であやしながら山道をたどる。やっと人家の明りが見え里の家にたどりついた。その家では風呂をたいている。たき口でこくばをもやしている吉造さんの後ろ姿が見えた。やれやれと思ったヨネさんは声をかけた。「おじさんふろたいとんな。さっき、山越えの道でタヌキに会うてああ、おそろしかった。だまされんかと」すると、吉造さんと思った人は、「こんなタヌキでなかったかな」とくるりと顔を見せた。その顔こそ、山越えの山でこくばをかいていたどんぐりまなこのにたっと笑った顔であった。ヨネさんは悲鳴をあげると、我が家めざしかけていった。
 あとには、いく匹もの豆ダヌキがころげるように走りまわっていたという。
 こんな話があちこちで聞かれ、タヌキに化かされたという話はあとをたたず里をにぎわしたという。
 香川県立図書館蔵 津田町外史第六章民話・史話・伝説より転載しました。
 
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拝殿
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本殿
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御旅所
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大山八幡御渡所の碑
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日支事変忠魂塔
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馬の石像(野間馬に似ている)
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播磨灘
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