掛橋和泉邸(吉村虎太郎 庄屋屋敷跡) 高知県高岡郡梼原町
 藩政時代に津野山郷の大庄屋が置かれた地で、古く宝暦年間には百姓一揆の総大将である中平善之進(1709~1757)も大庄屋としてこの地に住し、また明治維新の志士・吉村虎太郎も安政六年(1859)より番人大庄屋を勤た。
 明治以降は西津野村役場、考山塾青年学校、民具資料館敷地として利用されていた。
 現在は、梼原町の志士掛橋和泉邸宅を移築している。内部には姫隠しの間がある。
 茅屋根の母屋は幕末の建築で梁行4間半(約8.1mm) 桁行9間(約16.36m)、大黒柱は1尺2寸7分(約38.5cm)と1尺2寸(約36.4cm)角、間取りは神殿前客間十畳、玄関の間六畳、中の間、奥の間角八畳、茶の間10畳(現在は六畳、四畳半に分割)の六部屋からなり、奥の間は天井が低く危難の際を考慮して階上に「姫隠しの間」がある。
 
 吉村虎太郎重郷(1837~1863)
 父太平・母は雪、十二歳で父のあとを継いで庄屋となる。須崎村、下分村、梼原村の庄屋をつとめ治績あり。
 間崎滄浪の感化を受け勤王愛国に徹し国事に尽くす。
 文久二年(1862)同志「宮地宣蔵」とともに脱藩、長州に至る。
 伏見寺田屋騒動のため国に送られ投獄される。後許されて再度上京し同志とともに回天の大業を策し、文久三年(1863)八月天皇大和行幸攘夷親征の話があったため京都を発つ。世に天誅組という。吉村はその総裁である。
 五条に鈴木源内を倒し十津川郷兵一千名を募り高取城を攻めるが、京都に政変があり天皇行幸が中止となったので大義名分を失う。援軍失く忠光卿と別れ大和の国東吉野鷲家口にて戦死する。
 時、文久三年(1863)九月二十七日 年二六歳
 「吉野山風に乱れるもみじ葉は わがうつ大刀の血煙りと見よ」
 
 掛橋 和泉 天保六年~文久二年(1835~1862) 天保六年三月高岡郡梼原村に那須常吉の二男として生まれています。母は歌。幼名は那須順次。
 那須家の二男に生まれた和泉は、その後同じ梼原村の神職・掛橋因幡の養子となっています。和泉は同志が脱藩する際には家財を費やして援助をしていました。そんな和泉は国学を学び、勤皇心が厚かったようです。そして武術を同じく梼原村で道場を開いていた那須俊平に学んでいます。安政六年十二月、和泉の屋敷の隣に梼原村大庄屋であった吉村虎太郎が着任して来た事から和泉は虎太郎と交流を持つようになります。
 虎太郎は熱い尊皇心の持ち主だったそうで、和泉も多大な影響を受けたと伝わり、文久二年三月に虎太郎が脱藩した際にも援助をおこなうなど深い付き合いがあったようです。しかし文久二年頃から同志が相次いで脱藩するようになり、家財などを費やして同志を援助していた事が親戚に知られてしまうのです。
 支援をしていた事が義母に発覚し、詰責された和泉は、脱藩して行った同志の事が発覚する事を懸念して、問いかけにも何も答える事はなかったそうです。同志への義理もあれば、しかし義母への想いもあり、和泉は苦悩して同志玉川壮吉へ相談を持ち掛けた話も残っています。
 義母を欺く事を悩み、脱藩する道もあった中で和泉は家族に類が及ぶ事を考えて六月二日に自決しています。(七月十七日説もあり)現在梼原町の掛橋和泉邸は町の保護有形文化財に指定されています。
 文は、現地説明板&梼原村HPなどより転載しました。
 写真は2013年10月2日撮影
 場所はスポットノート『古建築物map』に投稿します。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 13