中岡真太郎生家 高知県安芸郡北川村柏木 0887-38-8600
中岡家は、もと土佐郡領家村(現高知市鏡)の大庄屋で平助を三代襲名していましたが、後が絶えたので、高知廿代町の庄屋寺石正道の三男が長岡郡上倉郷(現南国市上倉)の庄屋中岡家を嗣いで要七と称しました。
要七の婿養子になった二代目要七は、吾川郡西畑村(現高知市春野町西畑)庄屋、吾川郡八田村(いの町八田)庄屋を経て、文政七年(1834)北川郷の大庄屋となりました。(土佐藩は庄屋の転勤制度があった。)
この時に開かれた屋敷がこの柏木の屋敷であり、中岡慎太郎もこの屋敷で生まれています。
慎太郎の死後、この家は明治十三年五月二十九日付けで安芸郡北川郷柏木村居住、中岡照久から、同郷野友村居住前田弥五郎に、前田氏は更に野友の井津氏に転売しています。
また、井津氏は更に安岡亀弥に転売、安岡氏は田野町ヨケに移築、料理屋“朝日屋”を経営していましが、おしくも明治四十年の台風のため流失しました。
現在の建物は、村内にあった売渡証文や、関係縁者の証言、郷土史家の安岡大六、前田年雄両氏の考証を得て、およそ三百六十万円で昭和四十二年十一月十七日に復元落成されました。
入母屋造り茅葺き肘屋建築の家で誕生しました。庄屋の家には必ず勘定の間があり、庭に面した式台、次の間、客間は公の間、その他の奥の間を私生活に使われています。
県指定 史跡 指定年月日 : 昭和43年 6月28日
以上の文は、現地説明板などより転載しました。
写真は、2013年4月25日撮影
場所はスポットノート『古建築物map』に投稿します。
要七の婿養子になった二代目要七は、吾川郡西畑村(現高知市春野町西畑)庄屋、吾川郡八田村(いの町八田)庄屋を経て、文政七年(1834)北川郷の大庄屋となりました。(土佐藩は庄屋の転勤制度があった。)
この時に開かれた屋敷がこの柏木の屋敷であり、中岡慎太郎もこの屋敷で生まれています。
慎太郎の死後、この家は明治十三年五月二十九日付けで安芸郡北川郷柏木村居住、中岡照久から、同郷野友村居住前田弥五郎に、前田氏は更に野友の井津氏に転売しています。
また、井津氏は更に安岡亀弥に転売、安岡氏は田野町ヨケに移築、料理屋“朝日屋”を経営していましが、おしくも明治四十年の台風のため流失しました。
現在の建物は、村内にあった売渡証文や、関係縁者の証言、郷土史家の安岡大六、前田年雄両氏の考証を得て、およそ三百六十万円で昭和四十二年十一月十七日に復元落成されました。
入母屋造り茅葺き肘屋建築の家で誕生しました。庄屋の家には必ず勘定の間があり、庭に面した式台、次の間、客間は公の間、その他の奥の間を私生活に使われています。
県指定 史跡 指定年月日 : 昭和43年 6月28日
以上の文は、現地説明板などより転載しました。
写真は、2013年4月25日撮影
場所はスポットノート『古建築物map』に投稿します。
中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)
天保9年4月13日(1838年5月6日)~慶応3年11月17日(1867年12月12日)は、日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)、近江屋事件で死亡。享年30歳
天保9年4月13日(1838年5月6日)~慶応3年11月17日(1867年12月12日)は、日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)、近江屋事件で死亡。享年30歳
大庄屋の仕事
さまざまな法令を村人に知らせること
親孝行する人や長生きしている人に褒美を出すための手続き
洪水や火災など、非常事態が起こった時の取扱
罪人や不審者に対する注意、遍路等差配のこと
田地の売買や質入れするときの手続き(登記事務)
手紙や荷物の受付と発送する人夫などの手配(郵便運送事務)
年貢米の取立て、年中行事で必要なお金の取立て(税務)
村人からの控訴や罪人の取り調べ(裁判)
その他、風俗の取締、殖産興業、普請、宗門改め等の至るまで、あらゆる事務を取り扱っていました。
さまざまな法令を村人に知らせること
親孝行する人や長生きしている人に褒美を出すための手続き
洪水や火災など、非常事態が起こった時の取扱
罪人や不審者に対する注意、遍路等差配のこと
田地の売買や質入れするときの手続き(登記事務)
手紙や荷物の受付と発送する人夫などの手配(郵便運送事務)
年貢米の取立て、年中行事で必要なお金の取立て(税務)
村人からの控訴や罪人の取り調べ(裁判)
その他、風俗の取締、殖産興業、普請、宗門改め等の至るまで、あらゆる事務を取り扱っていました。
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