加茂神社 香川県仲多度郡多度津町南鴨に鎮座する神社。祭神:加茂別雷神
この地に、下加茂社の御供田が六十町あり、その関係で京都賀茂神社の別宮として、勧請されたものといわれる。周囲は田園地帯で、大きな社叢がひときわ目立つ。
この地に、下加茂社の御供田が六十町あり、その関係で京都賀茂神社の別宮として、勧請されたものといわれる。周囲は田園地帯で、大きな社叢がひときわ目立つ。
平安末期の源平合戦の時、平家を追悼する途上の源義経が暴風雨のため寄港し、武蔵坊弁慶が神の怒りを静めるため、賀茂神社に大般若波羅蜜多経を納経したという伝承がある。
室町時代になると細川氏被官で西讃を統治した香川氏が多度津山に館を構え、多度津は交易で栄えた。
弁慶自筆の大般若波羅蜜多経600巻 香川県指定重要文化財(書跡)昭和30年4月20日 他に有形文化財多数有り
室町時代になると細川氏被官で西讃を統治した香川氏が多度津山に館を構え、多度津は交易で栄えた。
弁慶自筆の大般若波羅蜜多経600巻 香川県指定重要文化財(書跡)昭和30年4月20日 他に有形文化財多数有り
西讃府誌には、
加茂大明神 祭祀九月九日、播磨國室明神ト同時ニ齋ヒ祭ルト云傳ヘリ、祠前ニ糺御前中之御前ノ二祠アリ、清泉アリ、例年正月七日、此泉ニテ神人生鮒ヲ取テ、前膳ニ供フ、殿内ニ辨慶自筆ノ大般若経六百巻アリ、
或傳フ元暦ノ役ニ、義経ノ舟、多度津ノ沖ヲ過ル時、風涛ノ難ニ遇ヒ、此祠ニ祈リ、事畢ルノ後是ヲ納ムト云、社地三段二畝、社僧観音院、祠官秋山但馬、神子1人、海人二人
加茂大明神 祭祀九月九日、播磨國室明神ト同時ニ齋ヒ祭ルト云傳ヘリ、祠前ニ糺御前中之御前ノ二祠アリ、清泉アリ、例年正月七日、此泉ニテ神人生鮒ヲ取テ、前膳ニ供フ、殿内ニ辨慶自筆ノ大般若経六百巻アリ、
或傳フ元暦ノ役ニ、義経ノ舟、多度津ノ沖ヲ過ル時、風涛ノ難ニ遇ヒ、此祠ニ祈リ、事畢ルノ後是ヲ納ムト云、社地三段二畝、社僧観音院、祠官秋山但馬、神子1人、海人二人
雷さんと隋神さん
多度津町の東、北鴨部落にある加茂神社の周囲には昔、桑の木が沢山植えてあった。そのためか、北鴨の道隆寺のお大師さんのお寺の名前を桑多山・道隆寺と言う。
何百・何千本もあるその桑畑の中へ、ある年の夏のこと、雷さんが落ちてきてアッと、いうまに桑畑は焼けてしもうた。
この時、加茂神社の隋神さんが、大変怒って、雷に向って弓を打ち込んだので、雷も怒り、盛に火の玉を投げつけたが、雷さんはついに負けて、逃げながら大声で、「これから、われらはこの加茂の桑畑には決して落ちないから、この土地にお墓を作るなよ」といった。それから加茂にはお墓を作らなくなり、また雷さんも落ちたことがないという。お墓は堀江の丈六という墓地にするようになったという。
子供たちは「ドンドロ、ドンドロ、鴨へ行け、加茂のおば々のへそを取れ」と唄われているが、これは加茂へ行け、そこには有難い、お大師さんが、おいでになる。お詣りする時には決して、オババ(大馬場・馬場先)の「へそを取れ」は端(はた)=渕(ふち)を通れと、言うのがほんとうらしい。
多度津町の東、北鴨部落にある加茂神社の周囲には昔、桑の木が沢山植えてあった。そのためか、北鴨の道隆寺のお大師さんのお寺の名前を桑多山・道隆寺と言う。
何百・何千本もあるその桑畑の中へ、ある年の夏のこと、雷さんが落ちてきてアッと、いうまに桑畑は焼けてしもうた。
この時、加茂神社の隋神さんが、大変怒って、雷に向って弓を打ち込んだので、雷も怒り、盛に火の玉を投げつけたが、雷さんはついに負けて、逃げながら大声で、「これから、われらはこの加茂の桑畑には決して落ちないから、この土地にお墓を作るなよ」といった。それから加茂にはお墓を作らなくなり、また雷さんも落ちたことがないという。お墓は堀江の丈六という墓地にするようになったという。
子供たちは「ドンドロ、ドンドロ、鴨へ行け、加茂のおば々のへそを取れ」と唄われているが、これは加茂へ行け、そこには有難い、お大師さんが、おいでになる。お詣りする時には決して、オババ(大馬場・馬場先)の「へそを取れ」は端(はた)=渕(ふち)を通れと、言うのがほんとうらしい。
文は在郷風土記 多度津&ゼンブデル様などから転載しました。
写真は2012年12月11日撮影
場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。
写真は2012年12月11日撮影
場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。
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