【大坂峠越遍路道と大坂峠園地】
 義経の大坂越
 兵庫・一の谷合戦寿永三年(1184)二月七日に敗れた平家は、海路屋島に逃れた。
 翌文治元年(1185)頼朝の命を受けた義経は源家の郎党を率いて京を出発、摂津国渡辺の里(大阪)から五艘の軍船を仕立て四国に向かった。折しも春疾風(はやて)の季節、北の風が雨と共に激しく吹きすさぶ中、幸い此の追い風を受けて、十七日卯の刻(午前六時頃)阿波国多奈庄中の津(徳島県小松島市)の海岸に上陸した。それより土地の郷族近藤六親家の協力を得、彼を先導として阿讃の国境へ向け北上した。
 義経は屋島の平家方に通報される事を極度に警戒し、隊を二つに分け自らは百七十騎の本隊を率いて大坂越を、一方弁慶には八十騎の別働隊をもって一本松越を夜を撤して通過し、翌朝寅の刻(午前四時頃)引田に降り着き、海蔵院東海寺で合流、少憩の後、笹龍胆紋入の白旗をおし立て讃岐の街道を一気に屋島に向かって駆け抜けて行った。
 以上の文は、現地引田町教育委員会(現東かがわ市)の説明板より転載しました。

 引田の語源
 引田の語源は太古から「ひけた」でしょうが、それが何を意味したものでしょうか。この研究には頗る骨が折れますが、日本書紀に引田部赤猪子(ひけたのあかししこ)という人があり、古事記に引田朝臣(ひけたのあそん)、引田君(ひけたのきみ)などがみられるので、引田は一つの部族名であった事は確かでしょう。大和の国の引田部神社は、その部族の祖神でしょう。日本の郷村で引田といわれる所がないのを見ても、この引田部族は余程強力な集団であったと考えられます。既に千年以前から、ここ引田郷の存在していた事は、和名抄(わみょうしょう)などの昔の本にかかれてあります。
 以上の文は現地環境庁(省)・香川県の説明板より転載しました。

  旧讃岐街道(遍路道)
 旧南海道跡で、古代都から国府並び讃岐へ行く官道であった。文治元年(1185)源義経は源氏の軍勢と共に平家追討のため阿波から讃岐へ、また天正十三年(1585)には四国征伐のため蜂須賀勢はこの道を讃岐から阿波へ越えた。藩政時代は、讃岐街道となり商人やお遍路さんなど旅人で賑わった。明治になると交通の要所大坂越えは右に道を造り、明治八年に完成させた。徳島高松間の重要な道路となり、現在は四国の道となっている。
 前回の記事の続き 
 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/36256221.html

 大坂峠から降りてくる。
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 石畳みが残っている。
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 大坂峠へ
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 海蔵院山門
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 大坂峠園地
 徳島県道・香川県道1号 徳島引田線は、徳島県徳島市から香川県東かがわ市に至る主要地方道である。
 起点:徳島県徳島市庄町一丁目(徳大薬学部前交差点=国道192号交点)終点:香川県東かがわ市坂元(大坂峠入口交差点=国道11号交点)
 瀬戸内海国立公園大坂峠園地はパラグライダー・ハンググライダーの滑空するために造られた施設なのでしょう。
 淡路鳴門方面
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 瀬戸内海 播磨灘
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 相生の海岸
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