【高野山・大善寺】 |
この寺院の名は、土佐藩の豪商・美濃屋が江戸時代後期の文化12年(1815)に編纂した『南路志』に記録されている。元々、寺院の名称は八幡山明星院大善寺と言い、大和国(現在の奈良県)長谷寺の僧坊・小池坊の末寺であったと伝えられている。当時の本尊は阿弥陀如来で、元来は現在地より東寄りの古市町にあった。しかし、宝永4年(1707)の宝永地震による津波で流され、城山の麓に移ったとされている。地震以前は末寺17ヶ寺を従える大寺であったと伝えられている。
明治時代になると廃仏毀釈により、明治27年(1894)に廃寺となった。廃寺となったことを惜しむ信徒により、2年後の明治29年(1896)現在の地に寺院が復興された。
以上の文は、ウィキペディアなどから転用しました。
二ツ石大師縁起
昔、須崎の入海は極めて広く、今の大師堂の地点は海に突き出ていた岬となっていた。
当時山越しに行くのを常としていたが、干潮の時は二ツ石岬の端を廻って行くことが出来た。ところが同地は波浪いつも岩をかみ「土佐の親知らず」といわれ波にさらわれて海の藻屑となるもの多く、その上同地点は伊予石鎚山の南端に当たるので身に不浄ある者は、時々怪異に出会うといって恐れられた。
平安時代前期の弘仁6年(815)空海(弘法大師)が42歳の時、四国八十八ヶ所開創の砌りここを通りかかり、そのことを聞いて、海岸に立つ二つの岩(現在は地中に埋まっている。)の上で海難横死者の菩提のため、海上安全の為に発願され祈願されたのが、今の大師堂開基の起源である。その後「二つ石のお大師さん」と誰言うことなくいわれ、今日に至っている。
二つ石は長年の波涛で周囲に土砂が堆積し陸地となった。昭和初期には防波堤が造られ、現在、二つ石は土中に埋まっている。以上の文は現地案内説明板より転載しました。
大師堂の左側には金毘羅宮の鳥居が建っている。昭和52年4月吉日とある。大善寺のある山の頂に鎮座しているが詳細は不明であります。本殿前の手洗石?奉寄・側面には文化10年10月吉・出来屋大四郎と刻まれているからかなり古くからあったと思われる。この山の上からは須崎の湾が一望出来ていたのだと思う。
写真は2011年6月14日撮影
場所はワイワイマップにスポット投稿します。
大師堂
大師像
観音像
霊場石像
本堂
鐘楼
金毘羅宮鳥居
鳥居
拝殿
金毘羅宮よりの展望
ケーブルカー
昔、須崎の入海は極めて広く、今の大師堂の地点は海に突き出ていた岬となっていた。
当時山越しに行くのを常としていたが、干潮の時は二ツ石岬の端を廻って行くことが出来た。ところが同地は波浪いつも岩をかみ「土佐の親知らず」といわれ波にさらわれて海の藻屑となるもの多く、その上同地点は伊予石鎚山の南端に当たるので身に不浄ある者は、時々怪異に出会うといって恐れられた。
平安時代前期の弘仁6年(815)空海(弘法大師)が42歳の時、四国八十八ヶ所開創の砌りここを通りかかり、そのことを聞いて、海岸に立つ二つの岩(現在は地中に埋まっている。)の上で海難横死者の菩提のため、海上安全の為に発願され祈願されたのが、今の大師堂開基の起源である。その後「二つ石のお大師さん」と誰言うことなくいわれ、今日に至っている。
二つ石は長年の波涛で周囲に土砂が堆積し陸地となった。昭和初期には防波堤が造られ、現在、二つ石は土中に埋まっている。以上の文は現地案内説明板より転載しました。
大師堂の左側には金毘羅宮の鳥居が建っている。昭和52年4月吉日とある。大善寺のある山の頂に鎮座しているが詳細は不明であります。本殿前の手洗石?奉寄・側面には文化10年10月吉・出来屋大四郎と刻まれているからかなり古くからあったと思われる。この山の上からは須崎の湾が一望出来ていたのだと思う。
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観音像
霊場石像
本堂
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金毘羅宮鳥居
鳥居
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