【摩廬山・焼山寺】 |
開山は空海であり安置している本尊・虚空蔵菩薩坐像(四尺五寸)をはじめ三面大黒天、午頭天王とも伝空海作。
巡錫中の空海は焼山寺の開山に訪れた。登山に及ぶにつれて悪蛇の妨害を受けた。妖火を吐きつけられた。
そこで空海は、摩盧(水の意)の印を結ぶと共に、真言を唱えながら進むと、悪蛇の吐く火は徐々に衰えはじめた。それでも悪蛇は九合目あたりの縦に割れた岩窟にこもって激しく抵抗した。空海は三面大黒天、午頭天王の加護を願い、その法力によって岩窟に封じた。
文は四国八十八ヶ所詳細地図帖などより参照しました。
写真は、2011年4月7日撮影
場所はワイワイマップにスポット投稿します。
参道入り口
仁王門
本堂
大師堂
三面大黒天堂
鐘楼
鐘の由来
本寺の鐘は松平阿波守忠英(ただてる)朝臣(蜂須賀二代目藩主)大檀主となられ、慶安二年(1649)二月二十三日寄進されたものである。
当寺蜂須賀公は二つの鐘を造り、一つを本寺に、いま一つを徳島市内の某寺に寄進されたそうである。
本寺の鐘は撞けば殷々たる響きは徳島市内にまで届いたという。あと一つの市内のものは少しも良い音を出さず公は人を使わして本寺の鐘と替えたいと申されたという。然し鐘は「いな~んいな~ん」と鳴って、それは果たされなかったという。
昭和十六年大東亜戦争に供出の命下り青年多数によって山麓まで運ばれ、其の処より馬車に積んだが、馬俄かに腹痛を訴えもだえ苦しんだ。馬子は遂に鐘を運ぶ事を断念して他の器物を運んだ。
かくして戦争は終わり、県文化財として指定を受け、別の場所に保存し、今は二代目の鐘が響いている。
境内
参道
仁王門
本堂
大師堂
三面大黒天堂
鐘楼
鐘の由来
本寺の鐘は松平阿波守忠英(ただてる)朝臣(蜂須賀二代目藩主)大檀主となられ、慶安二年(1649)二月二十三日寄進されたものである。
当寺蜂須賀公は二つの鐘を造り、一つを本寺に、いま一つを徳島市内の某寺に寄進されたそうである。
本寺の鐘は撞けば殷々たる響きは徳島市内にまで届いたという。あと一つの市内のものは少しも良い音を出さず公は人を使わして本寺の鐘と替えたいと申されたという。然し鐘は「いな~んいな~ん」と鳴って、それは果たされなかったという。
昭和十六年大東亜戦争に供出の命下り青年多数によって山麓まで運ばれ、其の処より馬車に積んだが、馬俄かに腹痛を訴えもだえ苦しんだ。馬子は遂に鐘を運ぶ事を断念して他の器物を運んだ。
かくして戦争は終わり、県文化財として指定を受け、別の場所に保存し、今は二代目の鐘が響いている。
境内
参道
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