【岡豊城跡】
 岡豊城(おこうじょう)は高知県南国市岡豊町北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる、国道32号の西側の岡豊山(標高97m)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。
 この山からは香長平野が見渡せる絶好の場所。
 《城郭構造 連郭式山城、天守構造 なし、築城主 長宗我部氏、築城年 13世紀~14世紀、主な改修者 長宗我部国親、主な城主 長宗我部氏、廃城年 天正19年(1591)、遺構 石垣、土塁、曲輪、空堀、国の史跡指定=平成20年7月28日》
 <>長宗我部国親・元親
 長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に岡豊山に岡豊城を築いた。室町時代応仁の乱後、土佐の国には長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人が台頭した。永正5年(1508)本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により岡豊城は落城、当主の長宗我部兼序は自刃した。
 国親は土佐南西部の幡多の一条氏のもとに落ち延びていた。一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入った。これを足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。
 その子、元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585)には四国を統一した。しかし、同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591)新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
 文はウィキペディアなどを参照しました。
 写真は、2010年12月8日撮影
 アクセス:旧国道32号沿い高知県立歴史民俗資料館へ
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

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 空堀
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 三の段建物跡礎石
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 土塁の内側の石垣
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 詰の下段建物跡礎石
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 堀切
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 二の段
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 詰の段(本丸)
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