【岡豊城跡】 |
この山からは香長平野が見渡せる絶好の場所。
《城郭構造 連郭式山城、天守構造 なし、築城主 長宗我部氏、築城年 13世紀~14世紀、主な改修者 長宗我部国親、主な城主 長宗我部氏、廃城年 天正19年(1591)、遺構 石垣、土塁、曲輪、空堀、国の史跡指定=平成20年7月28日》
<>長宗我部国親・元親
長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に岡豊山に岡豊城を築いた。室町時代応仁の乱後、土佐の国には長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人が台頭した。永正5年(1508)本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により岡豊城は落城、当主の長宗我部兼序は自刃した。
国親は土佐南西部の幡多の一条氏のもとに落ち延びていた。一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入った。これを足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。
その子、元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585)には四国を統一した。しかし、同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591)新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
文はウィキペディアなどを参照しました。
写真は、2010年12月8日撮影
アクセス:旧国道32号沿い高知県立歴史民俗資料館へ
場所はワイワイマップにスポット投稿します。

空堀

三の段建物跡礎石

土塁の内側の石垣

詰の下段建物跡礎石

堀切

二の段

詰の段(本丸)

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