【別子銅山Ⅶ・東延斜坑跡】 |
この辺りは別子鉱床の東の端に当るが、地下深部に三角(みすま)と言う所があり、そこにはとてつもない立派な鉱石が無尽蔵に眠っている事が以前から分っていた。明治7年(1874)住友家の要請を受けた鉱山師「ルイ・ラロック」は、この一点を選んで斜坑を掘り、三角の富坑体に到着させ、その間に階段状に水平坑道を開削して鉱床に逢着させる。採掘した鉱石は斜坑に集約して出鉱するという新生別子銅山案を提起した。ただ、当時日本の鉱山では本鋪(ほんじき)という大きな坑道でも5尺(1.5m)×6尺(1.8m)程度であったが、ラロックの東延斜坑は口は幅が20尺(6m)高さ9尺(2.7m)もあった。しかし、当時の住友の実力者「広瀬宰平」が、敢えてこの大起業に挑んだのは、彼が11歳で別子銅山に奉職し、三角の大富鉱体を見つけおり、三角に賭ける山内の熱い空気に触れていたからであろう。
東延斜坑跡
フランス人鉱山技師「ルイ・ラロック」の進言により、各水平坑道を縦に結ぶ運搬坑道として明治9年(1876)7月に着工、同28年(1895)1月に完成した。49度の斜坑で北より東35度30分の方向に626m掘り下げて八番坑道(第3通洞)に達している。この斜坑の完成により抗底の抗水は小足谷に排出され、各坑道からの鉱石は蒸気駆動の巻揚げ機で斜坑から搬出されて、別子の採鉱量は飛躍的に増大し、東延は銅山の中心地帯となり第一通洞口から下の高橋にかけて選鉱場や焼鉱炉が並んでいた。
以上の記事は現地案内説明板より転載しました。
写真は2010年8月16日撮影
レンガ造りの建造物跡

内部から天井は無い

側面


斜坑口(穴は写真に撮れなかった。)

レンガ造りの建造物


倒壊している建造物

銅山越え方面


内部から天井は無い

側面


斜坑口(穴は写真に撮れなかった。)

レンガ造りの建造物


倒壊している建造物

銅山越え方面

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