【別子銅山Ⅵ・ミナミグチ】 |
☆第一通洞南口
この付近一帯は通称ミナミグチと言う。別子銅山の近代化はこの付近から始まった。明治9年(1876)東延斜坑の開削が始まり明治19年には嶺北角石原から通洞が代々抗に貫通し、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1,020mに及ぶ水平抗道が初めて出現した。以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平(とうなる)へ移るまでの30年間、第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。また、明治26年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、初めて運輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、近代化の処点東延時代の一翼を担っていた。往時はこの谷にトラスト橋が架かり高橋(たかばし)製錬所まで水平軌道が延び、鉱石と製錬された粗銅(あらがね)を運んでいた。
☆東延地区
この谷の上部が東延地区である。明治7年(1874)住友家が招いたフランス人鉱山師「ルイ・ラロック」の構想に基き明治9年から近代化の開発が始まった。
あの見事な石垣の築造は2年の歳月を要して明治18年に完成したもので、面石は背後の山腹にある蛇紋岩を採石し築造した。谷川の流水は赤煉瓦30万枚を使って暗渠を構築し、用地の底を伏流させている。造成当時の用地面積は約6,600平方メートル、造成に要した作業員の数は延べ23,000人であった。ただし、冬季4~5ヶ月は積雪・凍結で工事を中断したが、その間に新居浜地区で暗渠用の煉瓦を作った。
以上の記事は現地説明案内板より転載しました。
写真は2010年7月16日撮影
南口少し手前

第一通洞南口



東延地区への登山道

振り返った景色

東延地区


第一通洞南口



東延地区への登山道

振り返った景色

東延地区

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