<><>大野原八幡宮<><> |
境内地は広く、北側には、別当寺だった慈雲寺と旧八幡宮がある。
※大野原八幡宮由緒
往古を忍ばせる椀貸塚・平塚・角塚の三大巨石墳や条里制遺跡などから古代社会の大野原は、燧灘文化圏の中心的存在として発展し、里人は椀貸塚を奥津城として、太子殿と称えて地主神を祀っていました。
宮文書によれば、九世紀頃には応神宮として祀られ、その後、大野原開基平田家三代源助正清が京都石清水八幡宮より、誉田別命を勧請、外二神を祭神として、元禄六年(一六九三)に本社・幣殿・拝殿を建立し大野原正八幡宮の基が整いました。
宝永六年(一七〇九)秋の大祭から神幸祭が行われ、御興三台、だんじり四台、獅子、鉄砲五挺、長刀、慈雲寺別当寺二百余名の大行列で神事が行われました。以後約五十年毎に御遷宮を行い今日に至っています。
往古を忍ばせる椀貸塚・平塚・角塚の三大巨石墳や条里制遺跡などから古代社会の大野原は、燧灘文化圏の中心的存在として発展し、里人は椀貸塚を奥津城として、太子殿と称えて地主神を祀っていました。
宮文書によれば、九世紀頃には応神宮として祀られ、その後、大野原開基平田家三代源助正清が京都石清水八幡宮より、誉田別命を勧請、外二神を祭神として、元禄六年(一六九三)に本社・幣殿・拝殿を建立し大野原正八幡宮の基が整いました。
宝永六年(一七〇九)秋の大祭から神幸祭が行われ、御興三台、だんじり四台、獅子、鉄砲五挺、長刀、慈雲寺別当寺二百余名の大行列で神事が行われました。以後約五十年毎に御遷宮を行い今日に至っています。
神社入り口 広場に土表がある
※大野原八幡神社随身門 市指定有形文化財(建造物)昭和58年6月28日 指定
前方両脇の間に随神像をおいているところから随神門と言われ、造りは三間一戸八脚門である。
柱は中央二本が円柱、他は角柱とした正規の造りであり、中央の柱間の間隔と脇の柱間の間隔の比は二対一となっておりひきしまった感じがする。
円柱状には大斗肘木をおき、中備にふさわしい簡素なつくりとなっている。
二重虹梁太瓶束の妻飾り、木鼻や組物は江戸中期の時代にふさわしい絵様彫刻が施されている。
弘化四年の屋根替修理(棟札による)や昭和四十年の一部修理が行われているが当初の姿を残しており、年代の明確な随神門として県内でも貴重な存在である。
拝殿
※大野原八幡神社本殿 附 棟札 市指定有形文化財(建造物) 平成4年2月1日指定
本殿は桁行一間、梁間一間の一間社入母屋造で一間の向拝をつけ、その上に軒唐破風がつき、さらに身屋に三角形の千鳥破風をつけた華麗でしかも一間社にしては屋根面積の大きい本殿である。
組物を三手先とするも珍しく、しかも妻飾りは虹梁太瓶束笈形をつけた豪華そのものの装飾を施している。
椀貸塚(円墳)
クヌギ(香川の保存木173・大野原八幡神社のクヌギ) 樹高25.0m 胸高幹周2.95m 枝張り2.95m 東西:23.0m南北:17.8m
神社裏の巨石群の一つ
記事は、神社内案内板より転載しました。
写真は2010年1月16日撮影
※大野原八幡神社随身門 市指定有形文化財(建造物)昭和58年6月28日 指定
前方両脇の間に随神像をおいているところから随神門と言われ、造りは三間一戸八脚門である。
柱は中央二本が円柱、他は角柱とした正規の造りであり、中央の柱間の間隔と脇の柱間の間隔の比は二対一となっておりひきしまった感じがする。
円柱状には大斗肘木をおき、中備にふさわしい簡素なつくりとなっている。
二重虹梁太瓶束の妻飾り、木鼻や組物は江戸中期の時代にふさわしい絵様彫刻が施されている。
弘化四年の屋根替修理(棟札による)や昭和四十年の一部修理が行われているが当初の姿を残しており、年代の明確な随神門として県内でも貴重な存在である。
拝殿
※大野原八幡神社本殿 附 棟札 市指定有形文化財(建造物) 平成4年2月1日指定
本殿は桁行一間、梁間一間の一間社入母屋造で一間の向拝をつけ、その上に軒唐破風がつき、さらに身屋に三角形の千鳥破風をつけた華麗でしかも一間社にしては屋根面積の大きい本殿である。
組物を三手先とするも珍しく、しかも妻飾りは虹梁太瓶束笈形をつけた豪華そのものの装飾を施している。
椀貸塚(円墳)
クヌギ(香川の保存木173・大野原八幡神社のクヌギ) 樹高25.0m 胸高幹周2.95m 枝張り2.95m 東西:23.0m南北:17.8m
神社裏の巨石群の一つ
記事は、神社内案内板より転載しました。
写真は2010年1月16日撮影
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