賢人名:生駒親正座像
時 代:【大永6年(1526)~慶長8年2月13日(1603年3月25日)】
父 親:生駒親重
号 名:
墓 所:利剣山・遍照光院・弘憲寺(高松市)
妻 名:高木正資養女
製作者:三枝惣太郎
建立者:高松市一番丁校区地域おこし事業推進委員会・高松市二番町校区地域住民一同
施 工:株式会社石の店山田
場 所:番町二丁目公園
住 所:香川県高松市番町2丁目
略 歴など
 生駒氏は藤原源氏の一流で、もと大和の生駒に住み、地名を氏とした。
 親正は、はじめ織田信長、ついで豊臣秀吉につかえて功があった。赤穂六万石を領し雅樂頭に任じられ、天正十五年(1587)八月、讃岐国十七万石に封ぜられた。
 親正は居城として、黒田如水の設計で、香東郡箆原荘(のはらのしょう)海辺の八輪島に城を築くことを決め、この地を屋島の南にあった高松郷の名をとり高松と名付けた。天正十六年に城下の町づくりを進め、町割りは士農工商の分に応じて居住区域が定められた。城の南から西にかけては重臣が配され、さらに市街、西部の一番丁、三番丁は侍屋敷、東北部から南部にかけて、生活必需品を売る商人や武士に必要な品をつくろ職人を集団的に住まわせ商人職人町に区画させた。早く出来た町人町は、本町、津るや町(鶴屋町)などである。丸亀から移住させた商人たちの丸亀町。職人町では大工町など、今も当時の名をとどめている。
 城は、西と東に舟入を設け、南方だけが陸地で、水陸の攻防と水運を考えた水城である。
 生駒親正から一正・正俊・高俊と四代五十四年の間今日の高松の基礎を築いた。後に寛永十九年には、約一万三千人の人口であった。
 高俊の時、家臣西嶋八兵衛を伊勢より招き香東川に変更、溜池などの土木事業を完成。大きな発展を遂げたが、家臣の争いによる生駒騒動のため、生駒高俊は出羽国(秋田県由利本荘市)矢島に退転させられた。親正は
 
資料等:Wikipedia、現地説明板など、
撮影日:2020年1月30日
近隣施設:法泉寺
駐車場:無し

561

562

563

564