四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 徳島県板野町

寺 名:金鶏山・愛染院・阿弥陀寺
本 尊:不動明王
開 基:
創 建:
宗 派:高野山真言宗
札 所:四国八十八ヶ所3番札所奥之院
住 所:徳島県板野郡板野町那東字居内
電 話:088-695-2215
由 緒
 
資料等:現地説明版・聞き取りなど
駐車場:無料
関連記事 亀光山・金泉寺
撮影日:2019年12月12日
近隣施設:切幡寺十楽寺

700-10

700-20

700-30

700-40

700-50

700-60

700-70

700-80

700-90

700-100

700-110

700-120

700-130

700-140

赤澤信濃守 廟所
 天正年間当地一帯は板西城主赤澤信濃守の治下にして当院を菩提寺とせり、信濃守は、都・阿波・讃岐に勢力の在りし三好家の主柱としてその武勇を轟かせり、足腰の病を司る祭神としてその廟に祀られ夥多の祈願御礼の草鞋(そうあい・わらじ)の奉納あり、往古より遍路に出る者、その道中の足の息災を祈念してこの廟に参拝するものなり。
700-150

700-160

700-161

700-170

700-171

700-180

700-190

700-200



駅 名:阿波大宮駅
鉄道会社:四国旅客鉄道
路線名:高徳線
駅構造:地上駅 島式ホーム1面2線 無人駅
乗降人員:22人/日
開業日:昭和10年(1935)3月20日
住 所:徳島県板野郡板野町大坂
解説等:大坂峠越え(南海道)に向かう途中の山間部に立地する駅であるため、周囲の民家は疎らである。1番のりば側を下り本線、2番のりば側を上り本線として使用している。このため1番のりば側を通過する列車は分岐器通過速度45km/h制限がある。また、一部の特急列車は当駅で運転停車する。尚、2番のりば(直線側)も曲線制限のため、70km/h制限である。
秘境駅ランキング:145位
資料等:Wikipediaなど
撮影日:2017年1月11日
近隣施設:大坂口番所跡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10



【大坂口御番所と讃岐街道】
 旧讃岐街道
 旧南海道跡で、古代都から国府並び讃岐へ行く官道であった。文治元年(1185)源義経は源氏の軍勢と共に平家追討のため阿波から讃岐へ、また天正十三年(1585)には四国征伐のため蜂須賀勢はこの道を讃岐から阿波へ越えた。藩政時代は、讃岐街道となり商人やお遍路さんなど旅人で賑わった。明治になると交通の要所大坂越えは右に道を造り、明治八年に完成させた。徳島高松間の重要な道路となり、現在は四国の道となっている。
 
 四国の道(四国自然歩道)
 四国の道は、歩いて景色の優れている自然公園や文化財、名勝等を訪ね、自然と文化に接し併せて健康の増進に役立つためにつくられたものです。
 四国を一周する全長は約1600㎞で徳島県の延長は約300㎞あります。
  
 大坂御番所
 文治元年(1185)屋島の平氏を攻撃するため、源義経越えた大坂峠は、大宝元年(701)制定の大宝律令以来南海道の重要な駅屋であった。阿波の郡頭駅から讃岐の馬宿駅を結ぶ官道が通じていた。都から讃岐や伊予に向かう官人たちはみんなこの峠を越えたのだった。義経の軍勢がこの峠を越えてからちょうど四百年後の天正十三年(1585)阿波に入部した徳島藩蜂須賀家政は、ここに御番所を設け「村瀬・久次米」の両家がこの御番所を預かることになった。
 ここを通過する旅人は武士は通行手形を庶民は檀那寺や地方役人が発行する往来手形を持参さなければ御番所を通してもらえなかった。幕末には、江戸幕府から「大塩平八郎」や「西郷隆盛」らの人相書が各御番所に配布され番所役人は非常警戒に当たらなければならなかった。この御番所の幕が下ろされたのは、明治二年(1869)版籍奉還のときである。
  
 御番所の役目
 正保元年(1644)、徳島藩は隣の高松藩との国境で、交通の要地にあたる大坂村に『大阪口御番所』を設けました。このように、阿波と讃岐・伊予・土佐との陸続きの国境には、境目(口留)番所が置かれました。大阪口御番所では、主に阿波からの藍の持ち出し、百姓の国外への逃亡、隠密の入国など厳しく目を光らせていました。
大阪口御番所は、徳島藩の領内に配置された番所の中でも、特に重要な位置に設けられており、津田(徳島市)、北泊(鳴門市)、白地(三好市池田町)、宍喰浦(海洋町宍喰)に設けられた番所・役所とともに重視されていました。
 江戸幕府の設置した。江戸周辺の関所では『入鉄砲に出女』の取り締まりを目的にしていました。阿波国に設けられた番所では、主に『入蛇宗門に出百姓』の取り締まりを行っていました。番所では、キリシタン禁制の高札を掲げるとともに、キリストの像を通行人に踏ませるなどして、キリシタン(邪宗門)の入国の取り締まりを行っていました。
 
 村瀬家と久次米家
 番所には、後番役と呼ばれる役人が勤めていました。大阪口御番所には、村瀬、久次米の両家が配され、両家のご子孫は現在も御番所跡のこの地に住んでいます。村瀬家の屋根には、今でも蜂須賀家定紋の卍の印が入った瓦が屋根に残っており、当時の御番所の面影をとどめています。御番役の殆どは世襲制となっていたようです。一つの番所に一人~四人の番所役人が配置されました。
 『家暦書』によると、村瀬家は、天正十三年(1586)蜂須賀氏の阿波入国以来、徳島城に勤務していましたが、大阪口御番所の設置とともに御番役を仰せつかったされています。
 以上の文は現地説明板より転載しました。
 写真は、2012年1月31日撮影
 場所はワイワイマップ(歴史的縁の地、文化財、資料館などのMAP)にスポット投稿します。

 村瀬家 左隣が久次米家
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 切支丹踏み絵
イメージ 4

 旧南海街道(讃岐街道)
イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

 大坂峠展望台(瀬戸内海国立公園)
イメージ 11

イメージ 12

【無尽山・地蔵寺】
 四国八十八ヶ所霊場第5番・無尽山(むじんざん)・地蔵寺(じぞうじ)・荘厳院(しょうごいん)は徳島県板野郡板野町にあるお寺で真言宗御室派で本尊は地蔵菩薩座像(伝弘法大師作) 開基は弘法大師
 弘仁12年(811)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、この寺を開くと共に勝軍地蔵菩薩1寸8分(5.5cm)を刻んで本尊とされた。その後紀州熊野権現の神霊を遷す勤めを仰せつかった浄函上人が、権現のお告げと霊木を授かって下向し、2尺7寸の延命地蔵を刻みその胎内へ、空海が刻まれた勝軍地蔵菩薩(甲冑を身にまとい馬にまたがる姿)を納められた。
 境内の裏山に五百羅漢があった。大正4年火の不始末で消失。大正11年お堂の再建。その後五百羅漢の復興試みたが戦争の為二百体足らずで終わっている。現在は新しく作られた二百体足らずと消失を免れた像とで三百体超である。木造の五百羅漢としては現在日本最大のものです。
 文は四国八十八ヶ所詳細地図帖より参照しました。
 写真は、2010年11月8日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。

 仁王門
イメージ 1

 本堂
イメージ 2

 大師堂
イメージ 3

 淡島堂
イメージ 4

 鐘楼
イメージ 5

 八角堂
イメージ 6

 五百羅漢釈迦堂
イメージ 7

 五百羅漢大師堂
イメージ 8

 五百羅漢弥陀堂
イメージ 9

 樹齢800年の大イチョウ
イメージ 10

ワイワイマップの見方
yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→「空海」で検索→《空海ゆかりの地と四国八十八ヶ所+別格二十霊場MAP》を スクロールで選定する。

【黒巌山・大日寺】
 第4番・黒巌山・大日寺・編照院
 四国八十八ヶ所霊場 第4番・黒巌山(こくがんざん)・大日寺(だいにちじ)・編照院(へんじょういん)は徳島県板野郡板野町にあるお寺で本尊を「大日如来坐像」伝弘法大師作、開基は弘法大師で東寺真言宗です。
 三方を山に囲まれた森の木々の中朱塗りの山門が厳かな佇まいが良い。本尊の大日如来が阿波の藩主「蜂須賀家」の守り本尊であった所から、同家の尊厳を厚く受けた。
 参考資料:四国八十八ヶ所詳細地図帖
 写真は、2010年7月20日撮影
 地図はワイワイマップにスポット投稿します。

イメージ 1

 鐘楼門
イメージ 2

 本堂
イメージ 3

 大師堂
イメージ 4

 地蔵尊
イメージ 5

 薬師堂
イメージ 6

 境内
イメージ 7

ワイワイマップの見方
yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→四国で検索→《四国八十八ヶ所+別格二十霊場+空海所縁の地》を スクロールで選定する。

↑このページのトップヘ